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2019年8月20日火曜日

すべての女は狂っている




すこしまえーーひと月だったかふた月ぐらい前だったかーー、SNSで拾ったのだけれど、とってもすてきな写真で、とってもすてきな少女だな、こんな少女が「人生の親戚」にいたらよかったのに。

扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)

シチュエーションは違うけど、キチガイ女予備軍の気配だってふんだんにあって胸キュンしたままだよ。少女を覆うような背後の樹の影がいいんだろうか。



素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


ーー谷川俊太郎は、こんな詩を書いておきながら
すぐ別れちまうんだよな、




一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
すべての女は狂っている toutes les femmes sont folles (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)

………

「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女の表象の排除(女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。そして女の表象の排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…

話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女の排除(女というものの排除 la forclusion de la femme)、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 


男というものは存在する、ただし詐欺師として。ファルスの詐欺師である。ここでそうミレールは言ってることになる。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。…両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
女の表象の排除 (女性のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme )がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアン(表象)は、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas” de Lacan.Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)


ファルスという詐欺を取り払ってしまえば、女たちだけがいる。

世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ il n'y a que des femmes、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(フィリップ・ソレルス Philippe Sollers『女たちFemmes』鈴木創士訳、邦訳1993年 原著1983年)

ーーなんとラカンの若い友人だったソレルスは、これをラカンの死の2年後、1983年に言っているのである。




《女たちだけがいる il n'y a que des femmes》と似たようなことは、ジジェクも言っている、《男はファルスを持った女である》と。

標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。

しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男はファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。

《 我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「棒線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)

男というものはたんなる表象(シニフィアン)である。そんなものは存在しないに決まっている。

例えば、最晩年のラカンはこう言っている。

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas.(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)

この二文を混淆させれば、「象徴界は存在しない」となる。これが次の文の内実である。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

そして、

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)

つまり言語は仮象であり、象徴界も仮象である。

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)

男というシニフィアン自体、妄想であり仮象に過ぎない。

言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)

さらにいえば世界は仮象である。世界は存在しない。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

世界は仮象である、ということは、何よりもまず、

女というものは存在しない。同様に、男というものも存在しない。The Woman does not exist, neither does The Man. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

である。ラカンにとって存在するとは、象徴界に存在するという意味である。「存在」という語で、現実界になにものかがあるか否かは問うていない。

すべてが象徴界ではない。象徴界の彼岸には言語外の現実界がある。すなわちすべてが仮象ではない。

すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)

現実界には話す身体がある。話す身体とは何か? 

自ら享楽する身体である。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。…

自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

ようするに世界には女性の享楽しかない。女性の享楽、すなわち身体の享楽であり、他の身体の享楽であり、他の身体の症状である。

穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatisme を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

ひとりの女のみがいるとは女たちのみがいるということである。

そしてひとりの女は、ファルス(欠如)ではなく、欠如の欠如である。

女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)

こうして世界には女たちしかいない、ということになる。《世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes》( Sollers,1983)


Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller 2011


女というものは存在せず女たちしかいない、ーーラカン用語を使って、これを「女というものの外立 ex-sistence de la femme」と言うことができる。

神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)




ーーとは、こうでもある。




我々はこの拒否を、「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

これゆえ人はみな性的妄想をする、《各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]》(ミレール、Choses de finesse en psychanalyse III,2008)

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。 (ラカン, S21, 19 Février 1974 )

男というものは仮象にすぎないにもかかわらず、人はファルスの詐欺師が存在することを信じ込んでいる。したがって妄想するのは女というものについてのみである。男というものについてはどんな女も妄想しない。女たちは、男たちと同様、つねに女というものを妄想している。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。

La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont, (ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)


フロイトは次のように言っている。

小児は、三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。…小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、赤ん坊はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎である。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

これがフロイトにとって人間の《知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb》の起源である。

そしてミレールは次のように言う。
科学が存在するのは、「女というものは存在しない la femme n'existe pas」からである。(ミレール「もう一人のラカン」Another Lacan、Jacques-Alain Miller)
精神分析は入り口に「女というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる。(ミレール「もう一人のラカン」1980年)

だが、こここではさらにこういっておこう、「人間の全知的活動があるのは、女というものが存在しないからである」と。

これをいくらか「哲学的に」言えばこうなる。

もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」(女の表象の排除 forclusion de signifiant de La femme)と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)


さらにジジェク風に言えばこうである。


想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、喪われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。

ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。

今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。

(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。

これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、喪われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での裂け目であり(その水準での裂け目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

簡単にいってしまえば、言語活動があるのはーーより厳密にいえば言語活動の反復、無限連鎖があるのはーー、「女というものは存在しない」=「女の表象の排除」があるためである。たとえばもし哲学者に「思考のせめぎ合い」なるものがあるのなら、それは究極的には「女の表象の排除」のせいである。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構 fictionnel である、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)

ーーここでバルトが言っていることは、現代ラカン派的にいえば、上に引用したJean-Claude Maleval, 2018のいう《参照の空虚 vide de la référence》、あるいは「女の表象の排除の穴」ーー《一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée [Ⱥ]》ーーにかかわる。

穴=トラウマであり、言語活動の不幸とは、言語活動のトラウマとも言える。