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2019年8月22日木曜日

囮の女

ああ、その言い放つようなぶっきらぼうな言葉遣い。それがやっと出た。蚊居肢子の欲望の原因のひとつが。あのときのあの言葉と同じ質の。ーー「これ、あげる」

幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因 cause du désir」とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのことだ。逆に「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

(対象aとしての)「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、私訳)


「唯一の徴 der einzige Zug」と近似した対象、それは骨象と呼ばれる。骨象とは身体に突き刺さった骨であり、固着である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


この骨象aこそサントームである。《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)

真理とは嘘である


サントーム=S(Ⱥ)=骨象aだ。

S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目(=欲動の固着)である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)


だが、あなたはサントームを消そうとばかりしてきた。蚊居肢子の「欲望の原因」を消そうとばかりしてきた。

「欲望の原因」、すなわち「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象を。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)


「欲望の原因 cause du désir」とは、「享楽の対象 objet de jouissance」のことである。

問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、「享楽の対象 objet de jouissance」、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)


享楽の対象、すなわちモノである。

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


やむえないこととはいえ、だが・・・これ以上いうまい。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)


あなたは、アレ以後、常に囮の対象として振舞ってきた。そうではないだろうか?

(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)
愛自体は見せかけに宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)


i(a) の下のaは見えなくなってしまった。




倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

前にも言ったが、蚊居肢子は真から女に惚れたのは2度だけである。14歳のときと59歳のときだ。前者の女とは長い苦しみのあとでようやく結婚に漕ぎつけて、9年で別れた。

結婚は、対象(パートナー)から「彼女のなかにあって彼女自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因としての対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

後者の女は還暦直前の一ヶ月。あれは生涯の刻印として必ず居残る。





あなたは知りたいといったことがあるから、こう書いている。だがほんとうは知りたくなかったはずである。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2014)


そう、この愛の条件の数学的定式を知りたくなかったのである。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン l' automaton de l'amour」)である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように(テュケーとオートマトンの合金)。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(ミレール『愛の迷宮  Les labyrinthes de l'amour』、Jacques-Alain Miller、1992)
――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が愛の引き金を引いたdéclenche l'amourのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)

ーー上の二例のどちらだったかぐらいは、あなたはよく知っている(知っていた)筈だが。

これらはくりかえし引用してきた文だ、--あなたに向けて。だがあなたは愛の条件を示すことにおいては凡庸だといわざるをえない詩人の言葉ににひきこもっているばかりだった。まともな詩人の言葉も真には引き受けていない。知りたくないのである。夢を見たいのである。

悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(ヴェイユ「 真空への注意 attention à vide」)
どんな形態をとっていようと例外なく、夢想は虚偽である。夢想は愛を排除する。愛はリアルである。sous toutes ses formes sans exception elle est le mensonge. Elle exclut l'amour. L'amour est réel. (ヴェイユーーブスケ宛 Simone Weil dans une lettre à Joë Bousquet)

もっとも次の文まで読み込めというのは無理な話ではある。

空虚は全き充溢以上の充溢である vide est plus plein que tous les pleins。空虚にまで達するなら人は救われる。なぜなら神がその空虚を埋めてくれるから car Dieu comble le vide。(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 』)
精神分析が明らかにしたのは、神とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)


→《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)

サントームとは、「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」である。それがΣ=S(Ⱥ)である。S(Ⱥ)、すなわち穴Ⱥの名。トラウマの名=身体の出来事の名=身体の記憶の名である。