このブログを検索

2019年9月1日日曜日

言語という自我理想

数日前に『集団心理学と自我の分析』を読み直したのだけれど、こんな文があるのは以前はまったく気づいていなかった。

言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)

この文は、言語は自我理想だといっているのであって、ジャック=アラン・ミレールの言い方なら、

言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père》( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)

である。




原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)

いま上に掲げた図をもっと簡略して図示すればこうなる。





こういう形で、日本語集団、英語集団、仏語集団、独語集団、中国語集団、朝鮮語集団等々ができあがる。各民族はそれぞれの言語で同一化し、バカ化する。

集団の知的能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度 ethisches Verhalten は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。……彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)

「サピア・ウォーフの仮説」というのがあって、バルトが日本論『記号の国』で触れているのだが、それは「人間の思考はその人間の母語によって決定される」という仮説だ。ニーチェ風にいえばこうである。

ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)

言語が異なれば、世界は異なってみえるのである。現在の世界の最大の不幸は基軸通貨どころか基軸言語まで米国あるいはアングロサクソンであることである。

人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番)

話を戻して、より直接的に父の名=自我理想=神の文脈で言えば、

言語のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」5『偶像の黄昏』1888年)

ようするに文法という神、文法という父の名を言っている。

さらに各国の言語の使用ではなく、言語の使用自体が人間をニブクするということもある。

なおわれわれは、概念 Begriffe の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語Wortというものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 Urerlebnis に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen。

一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性 Verschiedenheiten を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念 Vorstellung を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形 Urform というものが存在するかのような観念 Abbild を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)


これが中井久夫の「言語による世界の貧困化・秩序化」である。


言語による世界の貧困化・秩序化
名辞による色彩の分割(色わけ)は民族と時代によって異なる。近代文化内でも英国、オランダ、日本の各々の100色以上の色鉛筆セットを比較すれば色名の文化的差異と色分布の違いは一目瞭然である。英国の標品が暗色、オランダのが褐色が多く、繊細な相違を強調し、逆に、100色以上においても日本の標品で「黄色」とされる「明るい菜種色」などを欠いていることが多い。

しかし、言語化困難だとはいえ、色や味覚や嗅覚は言語化がなければ、まったく個人の自閉的世界にとどまってしまうだろう。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)



ここでラカンを引用しておこう。言語による啓蒙を通した人間のマヌケ化である。

私は相対的にはマヌケ débile mental にすぎないよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的知的障碍者 débile mentalにすぎない。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな。

[Comme je ne suis débile mental que relativement… je veux dire que je le suis comme tout le monde …comme je ne suis débile mental que relativement, c'est peut-être qu'une petite lumière me serait arrivée. ](ラカン、S24, 17 Mai 1977)

で、半年後にはこう言う。

言語は存在しない le langage, ça n'existe pas.(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

これは言語は仮象であるということである。

さらにいえば世界は仮象である。世界は存在しない。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

したがってすべては解釈だということになる。

現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。……

総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」(ニーチェ『力への意志』1886/87草稿)

《世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている》、ーーこれが「真理は女」の内実である。

真理は女である die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)


したがって真理は嘘であり錯角である。

真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014ーー)
真理とは錯覚である die Wahrheiten sind Illusionen。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。 真理とは、擦り切れて感覚的力が干上がった隠喩 Metaphernである。使い古されて肖像が消え、もはや貨幣としてではなく、金属として見なされるようになってしまった貨幣である。

die Wahrheiten sind Illusionen, von denen man vergessen hat, daß sie welche sind, Metaphern, die abgenutzt und sinnlich kraftlos geworden sind, Münzen, die ihr Bild verloren haben und nun als Metall, nicht mehr als Münzen, in Betracht kommen(ニーチェ『道徳外の意味における真理と虚偽について』1873年)

※ここで断っておかねばならないが、「真理とは嘘である」で記したように、フロイト・ラカンにおいて仮象としての世界の彼岸には現実界がある。あるいはエスがある。欲動の身体は実在する。これはニーチェにおいても同様である。ここではその相には触れずに記している。


巷間の「誠実な」歴史学者に欠けているのは、24歳のニーチェが言った次の認識である。

歴史とは、 それぞれの存立を賭けた無限に多様で無数の利害関心(Interessen)相互の闘争でないとしたら、一体何であろうか 。(Nietzsche, Nachgelassene Aufzeichnungen , Herbst 1867-Frühjahr 1868)

もっともこの認識の欠如は誰もが免れないと言っておいてもよい。つまりは《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている》(Human being cannot endure very much reality ---エリオット『四つの四重奏』中井久夫超訳)のである。


………

いま記したことは歴史だけの話ではない。

たとえば物理学の対象の自然である。

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que
c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)

物理学の言説が、自然を解釈するのであり、異なった物理学の言説を採用すれば世界は異なったものになる。

・科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

ラカンが、自然は《 非一 》pas-une であると言っているのはこの意味である。

自然は 《非一 pas-une 》に他ならない。La nature, dirai-je pour couper court, se spécifie de n’être « pas-une ». (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

ようするに「自然は存在しない」。 自然は解釈としてあるのみである。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002)

これらのニーチェ的ラカン派的思考は柄谷行人も相同的なことを言っている。

コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

コペルニクスと異なった計算体系が採用されれば、自然は異なったものになる。

科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)
経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される……そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」1983年)

ニーチェをくり返せば、物理学の言説における「線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間といったもの」は、言語(仮象)の一種である。

言語はレトリックである。Die Sprache ist Rhetorik, (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)

言語(数学的記号も含まれる)を使用するかぎり、人はみなプロパガンディスト propagandistである。