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2019年11月2日土曜日

四つの言説と八つの開脚

股開き欲動」に引き続く。記していたら、たぶんかなり難解になってしまったが、そのまま投稿することにする。

わたくしはクンデラの四つの眼差しを好んで引用してきた。


四つの視線のカテゴリー
誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。
政治家、スター、TV キャスター等
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。…この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。
社交家
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。
愛する人
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。
夢想家、理念家、死者



この四つの視線に依拠すれば、女性たちには、最低限四つの開脚の仕方があるとすることができる。

ーー蚊居肢子は③と④の開脚女に惹かれるのは間違いない。すこしでも①や②のにおいを嗅ぎ取ったら(性的不感症にはならないにしろ)魂の不感症になる。たとえば多くの映画スター、とりわけAVの女たちである(といってはおくけど、例外は多いにキマッテル、それ以外のもっと根源的な「愛の条件 Liebesbedingung」があるから)。

もっともクンデラは分析家ではないのだから、ラカンの四つの言説(=四つの社会的結びつき)における分析の言説の審級はない。女性の享楽的開脚の審級もない。

そもそも後期ラカン(アンコール以後のラカン)にとって、女性の享楽とは享楽自体であり、「性関係はない」に直接的につながるので、言説(人間関係の結びつき)とは基本的に関係がない。

卓越した女性の享楽は、「大他者の大他者はない」「性関係はない」という経験を獲得しうる場処である。[La jouissance féminine est par excellence le lieu d'où l'on accède à l'expérience qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, ou bien qu'il n'y a pas de rapport sexuel.](Florencia Farías , Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)
享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]の遠近法において…、人がシニフィアン・コミュニケーションから始めれば、…大他者は大他者の主体[Autre sujet]である。その主体があなたに応答する。これはコードの場・シニフィアンの場である。…

しかし人が享楽から始めれば、大他者は他の性[Autre sexe]である。なによりもまず、それは一者の享楽、孤独な享楽であり、根源的に非性的なものである。la jouissance Une, solitaire, est foncièrement asexuée。…(Jacques-Alain Miller,Les six paradigmes de la jouissance,1999)


女性の享楽とは、孤独の享楽なのである。


ーーとはいえ女性の享楽とは最も深いレベルでは構造的外傷神経症にかかわることを、「女性の享楽はタナトスである」にて示した。身体とはじつは享楽の固着によって分離してしまった「異者としての身体 un corps qui nous est étranger」(ラカン、1976)なのである。「暗闇に蔓延る異者としての女」、これが女性の享楽である。


ここで、クンデラの四つの視線をラカンの四つの言説プラスアルファと結びつける試みをしてみよう(ラカンの四つの言説の基本は、「簡潔版:四つの言説と資本の言説」を参照)。



ここでの四つの対象aの相は、ベースとしては次の四つの相である。



これ以外に最も重要な対象aとして享楽の喪失=穴がある。場合によっては母の声が穴である。

対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

ふたつだけ簡単な注釈をしておけば、「大学人の言説」とは、教育機関の「大学」とは関係がなく、普遍の言説、プロレタリアの言説とも呼びうる内容を持っている。そしてヒステリーの言説とは、言語の使用によって、身体的なものを去勢されてしまった主体ということであり、この観点からは人はヒステリーの主体がベースにある。

私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)

さてこの前提でラカン版四つの言説=四つの開脚→八つの開脚を示してみよう。下の図のグレーの箇所が四つの言説である。




冒頭の「女主人奴隷」とは、マルクスにある。あなたの股開きが神であるのは、奴隷がそれを崇めるせいに過ぎない。

この人物が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じている。B. nur König, weil sich andre Menschen als Unterthanen zu ihm verhalten. Sie glauben urngekehrt Unterthanen zu sein , weil er König ist. (マルクス『資本論』第一篇 註)

ほかの式については、それぞれ注釈することはしない。あくまで蚊居肢版ではあるが、愛の式「$ ◊ $は、コレット・ソレールが示している。

倒錯の式の標準版は「 a ◊ $」だが、ラカンは別にこう言っており、これに依拠してポール・バーハウは「 a ◊ Ⱥ」としている。

倒錯者は、大他者の中の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)

幻想の式もまた、ラカンが示している標準版 「$ ◊ a」を使用せずに別版「 $ ◊ Ⱥ 」としたが、これまたポール・バーハウによるものであり、厳密にはつぎのものである。



これはラカンのトーラス円図をマテーム式化したものであり、かならずこうなる。





幻想の言説(実質的にはヒステリーの言説)の宛先を「他の性」としたのは、ラカンの次の発言に基づく。

「大他者L'Autre」とは、私のここでの観点では、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。(ラカン、S20, 16 Janvier 1973 )

この「他の性 Autre sexe」とは「他の女 Autre femme」であり、存在しない女=神である。

女というものは神の別の名である。その理由で,女というものは存在しない」のである。La femme […]est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas. (ラカン、S23、18 Novembre 1975)

したがって、こう記せる。

LȺ femme


くりかえせばヒステリーの言説と幻想の言説をここでは敢えて区別したが、ヒステリーの言説の基盤には幻想の言説があり、ミレールで補えば、こうである。

ヒステリー的主体において、他の女[Autre femme]は支配的な力を持っている。というのは性についての問いは、常に他の性[Autre sexe]についての問いだから。ここでは相互性は重要ではない。というのは他の性[Autre sexe]は両性にとって女性の性[sexe féminin]だから。他の性[Autre sexe]は、男にとっても女にとっても女性の性[sexe féminin]である。ゆえに次の事態がある。すなわちヒステリー的主体にとっての根源的な問いは、十全な強度で、常に女というものを通しての応答に至ることを期待している。(Jacques-Alain Miller, The Axiom of the Fantasm[L'Axiome du Fantasme])

通常の開脚欲動は、ヒステリーの言説=幻想の言説である。

ヒステリー的女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。

彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である。ゆえに自らの身体によって、「他の女の神秘 le mystère de l'Autre femme」を崇敬する。「他の女の神秘」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、彼女は「他の女autre femme」を通して・「現実界の他者 autre réel」の介入を通して、自分は何なのかの神秘へと身体を供与しようとする。(Florencia Farías , Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)

これを女性の享楽「a◇Ⱥ」と見誤ってはならない。基本的にヒステリーの言説も強迫神経症の言説(男性の言説)も神経症として次のように定義されうる。

神経症とは、内的な欲動を大他者に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスと融合欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと分離欲動に執拗に専念することである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、OBSESSIONAL NEUROSIS, 2001)

これは四つの言説のヒステリーの言説と主人の言説の図に示されていることでもある(大学の言説が一般的に強迫神経症の言説といわれるが、大学言説は主人言説の変種にすぎない)。




フロイトは強迫神経症はヒステリーの方言だといっているが、主人の言説でもその底部に$(底部とは、上部の仮象の主体はそれを抑圧しつつもだが駆り立てられる力)があるようにヒステリーの方言である。

強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache(フロイト 『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年)

ようするに言語を使用して生きていかざるをえない人間の基盤には(蚊居肢版としては)次の図がある。



ーーこの図というのは蚊居肢版であるとしても、ラカンのトーラス円図を四つの言説構造図を利用していくらか説明的に図示したものにすぎない。




ーー穴とは穴としての対象a、栓とは穴埋としての対象aという意味である。

最も重要なのは対象aは穴であると同時に種々の穴埋めbouchonーー自らの穴aを埋めると同時に大他者の穴Ⱥを埋めるーーがあることである。(aとは実際はS(Ⱥ)である場合もあるが、ここではその議論は複雑化するので割愛、《S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.》(J.-A. MILLER, -2005)

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーン(穴埋め)を表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide(穴) をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016)

上辺の幻想($ ◊ Ⱥ)という夢想から、左底部から右上部への女性の享楽(a ◊ Ⱥ)に移行するためには数々の障害物がある(もっとも先に断っておけば[a ◊ Ⱥ]の究極の実現などというのは事実上、死でしかない)。




ヒステリーから女性性[De l'hystérie à la féminité]への道のりに、居残っているものがある。症状、不満、苦痛、過酷な母あるいは不在の母 [mères harcelantes ou absentes]、理想化された父あるいは不能の父 [pères idéalisés ou impuissants]、そして時に、子供をファルスの場に置く享楽[prend à la place du phallus un enfant]。(Florencia Farías , Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)

夢想というのは究極的には、女(他の性 Autre sexe=他の女 Autre femme)、つまり「存在しない女というもの LȺ femme」を夢見ることである。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。

La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont, (ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1992年)

ラカンはセミネール7で、 芸術=ヒステリー・宗教=強迫神経症・科学=パラノイアが人間の昇華形式の三様式だと言っている[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan, S7)]。この観点からは、芸術家たちが、「女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめない」のは、ヒステリーの言説である。




ここでいくらか飛躍して言うが、ま、ボクにいわせれば、たぶん真の基底である「女性の享楽=孤独の享楽=性的非関係」を見つめることは重要かもしれない。でもある程度、夢見るのはしょうがないよ。たぶん女は存在しないことを見つめたあとふたたび夢想する人と、見つめないままで夢想する人の相違はあるだろうがね。あまり「女性の享楽=享楽自体」を強調しすぎないことだね。

男サイドから言えばこういうことだ。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1968年)

わたしは夢想しているにすぎない、でもやっぱり夢想してしまうんだ、という精神的態度が必要なんじゃないか。

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい』1947年)



私は志摩の海女にあこがれているのである。彼女らの生活にふれてみたいのだ。なぜなら彼女らは千年の余、先祖代々同じ生業をくりかえし、海産物の生態に変化がなかった如くに、彼女らの生態にも変化なく今日に至っているように思われるからである。(坂口安吾「安吾の新日本地理 01 安吾・伊勢神宮にゆく」1951年)