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2019年11月12日火曜日

女はどういう男をもっとも憎むか

女が愛するときは、男はその女を恐れるがいい。愛するとき、女はあらゆる犠牲をささげる。そしてほかのいっさいのことは、その女にとって価値を失う。

Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es liebt: da bringt es jedes Opfer, und jedes andre Ding gilt ihm ohne Werth.


女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「たんなる悪意の者Seele nur böse」であるにとどまるが、女は「悪 schlecht」(何をしでかすかわからない)だから。

Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es hasst: denn der Mann ist im Grunde der Seele nur böse, das Weib aber ist dort schlecht.


女はどういう男をもっとも憎むか。――鉄が磁石に言ったことがある。「わたしがおまえをもっとも憎むのは、おまえがわたしを引きながらも、ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。

Wen hasst das Weib am meisten? - Also sprach das Eisen zum Magneten: "ich hasse dich am meisten, weil du anziehst, aber nicht stark genug bist, an dich zu ziehen."


男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。

Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」)






美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『ドゥイノ・エレギー』古井由吉訳)

Denn das Schöne ist nichts
als des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen,
und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht,
uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich.

ーーRainer Maria Rilke: Duineser Elegien


私の美はベラドンナ(毒薬)の美よ Meine Schönheit ist die der Tollkirsch。それを享楽する Genuß 者は、狂気と死の餌食となるわ Ihr Genuß bringt Wahnsinn und Tod(フロイト 『処女性のタブー 』1918)
男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。[monsieur couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie.] ……もちろんパッションの過剰 excès passionnelsに囚われたときだがね。(Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
女-母とは、交尾のあと雄を貪り喰うカマキリみたいなもんだよ。(ラカン S10, 1963, 摘要訳)

こういったことはボクが三十歳前後のときには、なにもフロイト・ラカン派やニーチェ読みでなくても、標準的に言われてたんだがな。

最近はポリコレとかフェミコレとかに去勢されて、数少ないまともなインテリ諸君たちも口に出せなくなっちまったのかな。この面からも中井久夫曰くの「21世紀は知的退行の世紀」だね、1990年以降に実際は始まっていると中井は言っているけど、ま、若者たちがひどくナイーブになっちまった世紀であるのは間違いないね。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? », 2014セミネール)
欲動のリアルle réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

古井由吉のいうようにごくごくアッタリマエのことなんだがな。ま、ラカンがアッタリマエだというつもりはないけれど。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『ぺテロの手紙、58』)
ラカンの母は、quaerens quem devoret(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、口を開いた鰐gueule ouverteとして提示した。(Miller, La logique de la cure du Petit Hans selon Lacan. 1993)
メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

やっぱ21世紀の男女関係における最大の不幸は、《ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった》(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012)ってことだろうよ。

もちろんそれだけじゃないけどさ。

ま、こういうふうにくりかえして引用しても「標準的には」まったく通用しないのはわかったよ。

ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
「私はあなたを欲望している」と誰かに言うことは、…その人に「私は、私の根源幻想のなかにあなたを含めている」ということに他ならない。

Dire à quelqu'un : je vous désire, c'est très précisément lui dire,[…] c'est dire : « Je vous implique dans mon fantasme fondamental ». (ラカン、S6, 19 Novembre 1958)
結局のところ、人々が愛するのは自分の欲望であって、欲望の対象ではない。Man liebt zuletzt seine Begierde, und nicht das Begehrte.(ニーチェ『善悪の彼岸』第175番, 1886年)