経験された無力な状況(寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit )をトラウマ的 traumatische と呼ぶ 。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)
現実界は…「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974 )
愛とは穴ウマのせいである。喪われたオマンコ生活のせいである。
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界realen Außenwelt の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…
人は臍の緒 cordon ombilical によって支えられている。…、胎盤 placenta によって支えられている。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー)を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
備給=リビドー=享楽=愛の力である。
備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen(フロイト『無意識』)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
すなわち愛は去勢のせいである。
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
以上、なんどもくりかえしたことだが、世界にはいまだとんでもない夢想家がいるものである。
悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(ヴェイユ「 空虚への注意 attention à vide」)
大切なのは空虚への注意である。すなわちおまんこの穴への注意である。これこそリアルである。
どんな形態をとっていようと例外なく、夢想は虚偽である。夢想は愛を排除する。愛はリアルである。sous toutes ses formes sans exception elle est le mensonge. Elle exclut l'amour. L'amour est réel. (ヴェイユーーブスケ宛 Simone Weil dans une lettre à Joë Bousquet)
肝腎なのは《享楽の空胞 vacuole de la jouissance》(ラカン、S16、1969)あるいは《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第2部第2章「中心の空洞」)することである!
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
そもそも神が男性神などと思い込まれてしまったのは、人類史上最悪の夢想である。
偉大な母なる神 große Muttergottheit⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されてしまうが。 Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
私は現代ギリシャ語の詩の翻訳から入った。ここから入らなければ私は訳詩者にならなかったであろう。言語学的には双方の隔たりは著しい。しかし、母音がアイウエオの五個、語尾が母音でなければ n あるいは s 、まれに r で終わり、せいぜい部分的にしか押韻できず、文語と口語との差が大きくてしかもお互いになしではすまず、抽象名詞が長い単語でしばしば不細工であり、詩の一行が長い(しばしば十五から二十数シラブル)などの点に目を向ければ、現代ギリシャの詩人は詩の言語としての現代ギリシャ語に、日本の詩人が日本語に直面するのと同じ困難を感じているであろうと思われた。彼らがどのようにそれに挑み、しばしば優れた詩を生み出しているのかを知ったことが私を訳詩の世界に導いたのであった。(中井久夫「訳詩の生理学」1996年)
ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)
幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因 cause du désir」とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのことだ。逆に「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。
(対象aとしての)「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。
でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、私訳)
「唯一の徴 der einzige Zug」と近似した対象、それは骨象と呼ばれる。骨象とは身体に突き刺さった骨であり、固着である。
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
この骨象aこそサントームである。《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)
S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目(=欲動の固着)である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)
「欲望の原因」、すなわち「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象を。
フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…
フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)
「欲望の原因 cause du désir」とは、「享楽の対象 objet de jouissance」のことである。
ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、「享楽の対象 objet de jouissance」、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)
享楽の対象、すなわちモノである。
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
やむえないこととはいえ、だが・・・これ以上いうまい。
ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。
ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…
倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…
不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…
前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…
後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)
あなたは、アレ以後、常に囮の対象として振舞ってきた。そうではないだろうか?
(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)
愛自体は見せかけに宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
i(a) の下のaは見えなくなってしまった。
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。
倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
結婚は、対象(パートナー)から「彼女のなかにあって彼女自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因としての対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
後者の女は還暦直前の一ヶ月。あれは生涯の刻印として必ず居残る。
あなたは知りたいといったことがあるから、こう書いている。だがほんとうは知りたくなかったはずである。
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2014)
そう、この愛の条件の数学的定式を知りたくなかったのである。
人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…
愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。
しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン l' automaton de l'amour」)である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。
フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』、Jacques-Alain Miller、1992)
ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。
このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)
悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(ヴェイユ「 真空への注意 attention à vide」)
どんな形態をとっていようと例外なく、夢想は虚偽である。夢想は愛を排除する。愛はリアルである。sous toutes ses formes sans exception elle est le mensonge. Elle exclut l'amour. L'amour est réel. (ヴェイユーーブスケ宛 Simone Weil dans une lettre à Joë Bousquet)
もっとも次の文まで読み込めというのは無理な話ではある。
空虚は全き充溢以上の充溢である vide est plus plein que tous les pleins。空虚にまで達するなら人は救われる。なぜなら神がその空虚を埋めてくれるから car Dieu comble le vide。(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 』)
精神分析が明らかにしたのは、神とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
→《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームとは、「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」である。それがΣ=S(Ⱥ)である。S(Ⱥ)、すなわち穴Ⱥの名。トラウマの名=身体の出来事の名=身体の記憶の名である。
愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ jamais d'un vouloir」。(マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)
Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir.
誰の訳かしらないが、すくなくとも「けっして欲することからではないわ jamais d'un vouloir」は、「意志からは決して」のほうがいいな。
愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)
ーー愛は「意志からは決して jamais d'un vouloir」。
愛は無意志的 involontaire である。
『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの l'involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの force à penser、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章、第二版、1970年)
愛は強制された運動の機械である。
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
愛は自動機械 automatismeである。
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動機械 automatisme 」という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
愛は無意識のエスの反復強迫である。
この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動機械 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
愛の自動機械こそ、愛の条件である。
人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…
愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。
しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン l' automaton de l'amour」)である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。
フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』、Jacques-Alain Miller、1992)
愛はアフロディーテの一撃である。
愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)
ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。
このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)
それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désir(対象a) です。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりで内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。
――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!
無意識の現実 La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。
とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュとしての欲望の原因[causes du désir, qui sont comme des fétiches]が愛の過程を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性に愛の対象選択 [le choix amoureux des femmes]に役割をはたします。(Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)
女の愛は被愛マニアである(フロイトの言い方なら主にナルコン)。
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
《男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛マニア形式 la forme érotomaniaque」》(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛マニア的です[Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)
例外は?
愛はビジネスである。
愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。………
われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。…(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
主人の言説の時代には症状の構築が可能であった。最晩年のラカンの表現をつかえば性関係を構築するとは、《性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]》(ミレール、2008)。妄想とは悪い意味ではない。「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」に対する補填である。
資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、シンプルに「愛の事柄 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。
倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome 概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
ここではデュラスでいいのである、ーー愛は「意志からは決して jamais d'un vouloir」
愛のビジネスをやっている連中だけである、意志的な愛は。
とはいえ最低限、ドゥルーズ=プルーストぐらいはつかんでいるほうがいいかも。
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970年)
もう騙されたくなかった。
私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美 la beauté de Balbec は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。
またしてもまんまとだまされたくはなかった Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。…
未知の表徴 signes inconnus(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴 signes en relief)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。(プルースト「見出された時」)
一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
すべての女は狂っている toutes les femmes sont folles (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
………
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女の表象の排除(女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。そして女の表象の排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…
話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女の排除(女というものの排除 la forclusion de la femme)、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)
男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。…両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
女の表象の排除 (女性のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme )がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアン(表象)は、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas” de Lacan.Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)
ファルスという詐欺を取り払ってしまえば、女たちだけがいる。
世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ il n'y a que des femmes、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …
Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(フィリップ・ソレルス Philippe Sollers『女たちFemmes』鈴木創士訳、邦訳1993年 原著1983年)
《 我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)
ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「棒線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)
男というものはたんなる表象(シニフィアン)である。そんなものは存在しないに決まっている。
例えば、最晩年のラカンはこう言っている。
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas.(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
この二文を混淆させれば、「象徴界は存在しない」となる。これが次の文の内実である。
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
そして、
ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
つまり言語は仮象であり、象徴界も仮象である。
私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)
男というシニフィアン自体、妄想であり仮象に過ぎない。
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)
女というものは存在しない。同様に、男というものも存在しない。The Woman does not exist, neither does The Man. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)
すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)
現実界には話す身体がある。話す身体とは何か?
自ら享楽する身体である。
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。…
自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatisme を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女のみがいるとは女たちのみがいるということである。
そしてひとりの女は、ファルス(欠如)ではなく、欠如の欠如である。
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
こうして世界には女たちしかいない、ということになる。《世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes》( Sollers,1983)
Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller 2011
女というものは存在せず女たちしかいない、ーーラカン用語を使って、これを「女というものの外立 ex-sistence de la femme」と言うことができる。
神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
ーーとは、こうでもある。
我々はこの拒否を、「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
これゆえ人はみな性的妄想をする、《各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]》(ミレール、Choses de finesse en psychanalyse III,2008)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。 (ラカン, S21, 19 Février 1974 )
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont, (ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)
フロイトは次のように言っている。
小児は、三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。…小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、赤ん坊はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎である。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
これがフロイトにとって人間の《知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb》の起源である。
そしてミレールは次のように言う。
科学が存在するのは、「女というものは存在しない la femme n'existe pas」からである。(ミレール「もう一人のラカン」Another Lacan、Jacques-Alain Miller)
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」(女の表象の排除 forclusion de signifiant de La femme)と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)
言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構 fictionnel である、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
ーーここでバルトが言っていることは、現代ラカン派的にいえば、上に引用したJean-Claude Maleval, 2018のいう《参照の空虚 vide de la référence》、あるいは「女の表象の排除の穴」ーー《一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée [Ⱥ]》ーーにかかわる。
Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là. (マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)
1980年、38歳年下の同性愛者ヤン・アンドレア Yann Andréa と知り合う。
男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性が防水加工されてるわけはない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche.(マルグリット・デュラス Marguerite Duras, “The Thing”、1980)
男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
ボクは言う、享楽は黒い夜の色。股の裂け目で宙吊りになっている。
リビドーは、空虚の色。裂け目の光のなかで宙吊りになっている libido[…] est couleur-de-vide : suspendue dans la lumière d'une béance(ラカン『フロイトの欲動』E851, 1964年)
ボクは言う、享楽の生垣での勃起萎縮。
トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(ラカン, E853)
ボクは言う、メデューサの首ってのはとっても怖いよ
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
ボクは言う、女ってのは遠くから眺めてるだけなのが一番。
ボクは言う、まだ死にたくないや
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
ボクは言う、このキチガイ女!
一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)
「蚊居肢」とは、あまりに強すぎる欲動を飼い馴らすための非意味のシニフィアンである。
(人間における)すべての障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。
概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)
幼少時、スタンダール的外傷体験をもった蚊居肢散人の苦肉の策である。
私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)
ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)
Such other feminine subject also at the exit of the adolescence chooses the tattoo as a mark of the link to the Other. She gets inscribed on her back the name of her father that she had lost during her early childhood. She had always been considered as 'the orphan'. "The lack of my father always pushed me towards the life during all these years", she says. By fixing this mark to the body in an indelible way, she tries at the same time to fix something of the cause which directs her love life. Here, the tonality is completely other, that is to say hysterical, and the body obeys the constraint of the castration. (Ordinary of the tattooed mark, Nassia Linardou - Blanchet, 2015)
これこそ症状と同一化しつつ、かつ距離を取ることです。
分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?
症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)
……というわけで、ここでの記述はゼッタイ安易二信用シナイデクダサイ。
あくまで現代ラカン派的「魔女のメタサイコロジー」の話です。
「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。
しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)
とはいえ、《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)あるいは《エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971)以後の世界においてはことさら、なんらかの魔女に頼らねば、人はみな欲動の暴発に戦々兢々とせざるをえません。《私は欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。》(ラカン、S20、08 Mai 1973)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)
愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。
この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。
ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
「自体性愛 auto-érotisme」という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
※ここでは自体性愛(自己身体エロス)における自己身体の最も深い意味の内実については、その引用をはずす。簡潔に言えば、異者としての自己身体である。それについては「穴の享楽 la jouissance du trou」を参照。
◼️自己身体の享楽=自閉症的享楽
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
自体性愛 Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)
◼️「黒い夜」の機能としての欲動の現実界
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatismeを為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)
◼️女性の享楽=自閉症的享楽(自体性愛)=享楽自体
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。…
自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。
その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
◼️女性の享楽=サントームの享楽=自閉症的享楽
サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)
◼️サントームの享楽=固着の享楽
享楽の固着 fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, décembre, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition(MILLER、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
◼️享楽という原マゾヒズム=死の欲動
我々にとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自分自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であろう。Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb.(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)
力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
荒々しいwilden、「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 vom Ich ungebändigten Triebregung 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)
蠢動(欲動蠢動 Triebregung)は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)
簡単に示しておけば、ドゥルーズ やクロソフスキーが既に強調しているように、力への意志=永遠回帰であり、フロイトは永遠回帰を反復強迫とし、ラカンは享楽回帰 retour de la jouissance と表現した。そして享楽回帰とは、サントームの享楽=女性の享楽に他ならない。
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -
- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!
- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)
フロイトは《力への意志 Willens zur Macht》を《エスの力能 Macht des Es》とも呼んだ。
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
いやあ、ボクは女性的力への意志はとっても怖いよ、魅惑されないことはないけどさ。
どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)
女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)
自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)
享楽への意志 la volonté de jouissanceは、モントルイユ夫人によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)
死への道…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
で、真のフェミニストからはずれて「常識的」ラカン派を引用すればこうだ。
驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 』2005年)
欲動Triebとは、主体自身が行きたくない場まで、主体を駆り立てる drive ことである。主体はすべてのコントロールを失う。すべての欲動の表出は暴力の要素を含んでいる。暴力なき欲動は、用語として矛盾である。「戦争ではなく愛し合おう Make love not war」は不可能な組合せである。(ポール・バーハウ、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998年)
話を戻せば、そもそも最近は、若いのだって逃げちまうはずだよ、冥界機械を露出させたら。ふつうはね。
何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 1998)
不安セミネールでラカンは言う、「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンはさらに強調する、「それは明らかだ ça saute aux yeux 」と。…
最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。
そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…
ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…
不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)