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2019年8月24日土曜日

国別死者(第一次、第二次大戦)




ーーこういった数字はみたことがなかったのだが、すこしまえ日本軍の戦死者数を調べたときに行き当たった。画像の大きさが調整できないので貼り付けるのをやめたのだが、小さいままでもやはり備忘として貼付しておこう。

フランスにおける第一次大戦の死傷者数135万人というのはやはりその人口比で考えれば、かなり大きな数字だ。もっともドイツの177万人があるが。

中井久夫はこう記している。

第二次大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会談にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


第二次世界大戦の死者はこうだ。




ドイツの「市民の死者数」が267万人とある。オーストリア93万人(うちユダヤ系市民65万人)とあるように、267万人のなかにはユダヤ系ユダヤがかなりの数をしめるだろう。だがそれだけではない(日本は80万人とある)。

ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。

なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)

以下の文は、《戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない》とあるが、降伏後に一般市民が虐殺されるのも「つまらない」。

ミズーリ号の左舷中央構造物に迫る特攻機の写真がある。凄絶である。なにゆえの特攻だったか。吉田満の『戦艦大和ノ最期』で士官の議論をまとめた臼井大尉は「新生日本にさきがけて散る。本望じゃないか」という。日本は敗北して一から出直すしかないところまできている、そのために死ぬのだ、自分たちの死の意義はそれしかない、というのだ。特攻隊の犠牲の上に今の日本があるとはそういう意味である。それ以外にはおよそ考えられない。

特攻機は無効ではなかった。米艦の乗務員は燃えるガソリンを全身に浴びる恐怖に脅え、戦争神経症を大量に生んだ。しかし、「では降伏しよう」に繋がらない。そして戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない。米兵の憎悪を増幅した理由の一つである。

一九四四年末の「天王山」レイテ戦敗北後のわが国に勝算はなかったが、その時点では降伏を言いだせる「空気」はなかった。特攻隊員は時間稼ぎ、それも「空気」が変わる時間を稼ぐために死んだ。私は南米諸国までが次々に対日宣戦を行なう新聞記事を読んで、とうとう世界を敵に回したと思ったが、口に出せることではなかった。

最近暴露されている企業・官庁の不正は、それを知った従業員が「とても言いだせる空気ではなかった」にちがいない。重役会でもだろう。「空気が読める」ことが単純によいことではないのを記して、二〇〇七年のこのコラムを閉じる。(中井久夫「戦艦ミズーリと特攻機」(「清陰星雨」『神戸新聞』2007.12.29)


鳩山由紀夫と石破茂の韓国のGSOMIA破棄についての次の発言にたいしてツイッター上などではひどいさわぎがおこっている。

「日韓の対立が最悪の展開。原点は日本が朝鮮半島を植民地にして彼らに苦痛を与えたこと」(鳩山由紀夫、2019年8月23日)
「日本が戦争責任と正面から向き合わなかったことが問題の根底にある」(自民・石破茂元幹事長、2019年8月23日)

こういったことが「とても言いだせる空気ではない」などということになりつつあるのではないかとの心配が杞憂であることを祈る。

すくなくとも戦争にかんしては楽観論とはつねにあやういものである。

第一次大戦開始の際のドイツ宰相ベートマン=ホルヴェーグは前任者に「どうしてこういうことになったんだ」と問われて「それがわかったらねぇ」と嘆息したという。太平洋戦争の開戦直前、指導層は「ジリ貧よりドカ貧を選ぶ」といって、そのとおりになった。必要十分の根拠を以て開戦することは、1939年、ソ連に事実上の併合を迫られたフィンランドの他、なかなか思いつかない。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)
戦争が始まりそうになってからの反対で奏功した例はあっても少ない。1937年に始まる日中戦争直前には社会大衆党が躍進した。ダンスホールやキャバレーが開かれていた。人々はほぼ泰平の世を謳歌していたのである。天皇機関説は天皇の支持の下に二年前まで官僚公認の学説であった。たしかに昭和天皇とその親英米エスタブリッシュメントは孤立を深めつつあったが、満州や上海における軍の独断専行は、ある程度許容すれば止むであろうと楽観的に眺められていた。中国は軍閥が割拠し、いずれにせよ早晩列強の間で分割されてしまうのだという、少し古い認識がその背後にあった。しかし、いったん戦争が始まってしまうと、「前線の兵士の苦労を思え」という声の前に反対論は急速に圧伏された。ついで「戦死者」が持ち出される。「生存者罪悪感」への強烈な訴えである。平和への思考は平和への郷愁となり、個々の低い呟きでしかなくなる。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)


表に戻れば、ベトナムの餓死者というのは、その数の信憑性の疑義がネット上には落ちている。だがすくなくともかなりの量の米輸入を日本はベトナムからしている。

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた「外米」はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔…〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)

死者の話とは関係がないが、「戦争研究家」中井久夫によるとても印象に残っている記述がある。

元商船三井監査役、熊谷淑郎氏によれば、戦争末期も末期、昭和二十年七月、病院船「高砂丸」が米駆逐艦の臨検を受けた。乗艦してきた米水兵は皆船尾に翻る日の丸に向かってきちっと敬礼した。若き乗務員の熊谷氏には「目のくらむような驚き」だった。この時期、日本では米英の国旗を踏みつけていた。米国に兜を脱ぎたくなるのはこういう時である。(中井久夫「国際化と日の丸」(神戸新聞 1991.12.26)『記憶の肖像』所収)

最後にこう引用しておこう。

戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和ある観察」)

ーー戦争の外傷性記憶があるうちはまだいいのである。

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

2019年8月23日金曜日

愛とは喪われたおまんこのせいである

経験された無力な状況(寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit )をトラウマ的 traumatische と呼ぶ 。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)
現実界は…「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974 )

愛とは穴ウマのせいである。喪われたオマンコ生活のせいである。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間の子宮内生活 Die Intrauterinexistenz des Menschen は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界realen Außenwelt の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

これが愛の原起源である。だれもが知っていることだ、おまんこ生活は出生とともに喪われたことを。そして人にはみなおまんこ回帰運動がある。母なる大地回帰運動がある。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

不幸にもほとんどの文学者や詩人や思想家たちは、この相をはずして愛の寝言ばかり言っている。夢を見ているのである。

永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…

人は臍の緒 cordon ombilical によって支えられている。…、胎盤 placenta によって支えられている。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー)を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

備給=リビドー=享楽=愛の力である。

備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen(フロイト『無意識』)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

喪われたおまんこ生活 verlorene Intrauterinlebenは、去勢とも呼ばれる。

去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

 すなわち愛は去勢のせいである。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


以上、なんどもくりかえしたことだが、世界にはいまだとんでもない夢想家がいるものである。

悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(ヴェイユ「 空虚への注意 attention à vide」)

 大切なのは空虚への注意である。すなわちおまんこの穴への注意である。これこそリアルである。

どんな形態をとっていようと例外なく、夢想は虚偽である。夢想は愛を排除する。愛はリアルである。sous toutes ses formes sans exception elle est le mensonge. Elle exclut l'amour. L'amour est réel. (ヴェイユーーブスケ宛 Simone Weil dans une lettre à Joë Bousquet)

肝腎なのは《享楽の空胞 vacuole de la jouissance》(ラカン、S16、1969)あるいは《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第2部第2章「中心の空洞」)することである!




問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

そもそも神が男性神などと思い込まれてしまったのは、人類史上最悪の夢想である。

偉大な母なる神 große Muttergottheit⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されてしまうが。 Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)




おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ


いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。
いつかおれは行くんだ」と。
「あっちのほうがこっちよりよい。
ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。
おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?
眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。
ここで何年過したことか。
過した歳月は無駄だった。パアになった。

きみにゃ新しい土地はみつかるまい。
別の海はみあたるまい。
この市はずっとついてまわる
……
まわりまわってたどりついても
みればまたぞろこの市だ。
他の場所にゆく夢は捨てろ。
きみ用の船はない。道もだ。
この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには
きみの人生は全世界で廃墟になったさ」

ーーカヴァフィス「市」より 中井久夫訳


《ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?》

この箇所のギリシャ語原詩は次の通り。




下線部の、中井訳では「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。」の箇所は、

・And my heart is—like a corse--buried (代表的な英訳とされる KeeleySherrard)

・Mon cceur est enseveli comme un mort (ユルスナール仏訳)

であり、もし直訳すれば「私の心はーー死体のようにーー埋葬されている。」となる。


この箇所を、各国十一もの翻訳を引用して比較されている方がいる。

この部分の眼目は何といっても、(……)「死体のように」という煮え切らない明喩を、「おれの心はムクロ。」と吐き捨てるような片仮名表記で、ピリオドを打ち、暗喩に転換したことに尽きる、(……)中井訳の、ここまで思い切った、しかも作者の心奥に肉薄し、それに対応する表現を再構成して提示するのは、翻訳というより、詩作それ自体と変わらないであろう。普通の文学研究者に、これはできないのではないだろうか。目に見えない心理を把握し、言語化する精神科医の力はあまりにも大きいことを思い知らされる。(中村幸一「おれの心はムクロ。」――中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』における翻訳技法の研究)

………

■中井久夫「訳詩の生理学」より
私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。

また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


■中井久夫「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底


精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。


詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。


実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。

散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。

かりに、貴重な薄氷感を失えば、言語の発見論的使用は「妄想」に堕する危険がある。実際、妄想は全面的危機に際して一つの解釈を示して救い手として現れるものであり、患者が妄想にその内容にふさわしい恐怖を示さないかに見えることは、何よりもまず、それに先行する事態がはるかにおそるべきものであって、それに比すれば何ほどのことはないからである。実際、妄想の反復性と一義性とは、内容の恐怖性を補って余りある安定を与える。ここに妄想の抜けにくさがある。それは不要になった時に自然に消滅する他はないものである。しかし、安んじて共存できるものでもない。また問題は、新しい体験が入ってこなくなることであり、それゆえに妄想を持つ人の「心が痩せる」。詩と妄想とは最終的には相互排除的であるが、出発点においては、まったく別個のものではないと私は考える。むろん、発見論的使用と無縁な韻文はありうる。それは韻文であるが「詩」との相違は、数学の論文とパズルとの差に近くはないか。もっとも、詩作のある段階においてはパズル的側面、言語ゲーム的側面が前に出ることもある。それが詩を完成させる救いになることもある。


私がここでポール・ヴァレリーに触れるのは、ただ私が無謀にも彼の詩の若干を訳したことがあるというだけではない(『ヘルメス』 40号、同47 号)。むろん、翻訳は、出来ばえはどうであっても通常よりも徹底的な読みであり、その過程で気づいた襞もある。しかし、それよりも、詩作の生理学を自ら述べているのがなかんづく彼だからである。ここでは紙幅の関係もあり、主に「太公と若きパルク」によって述べよう。

彼は一八九二年に詩作を廃し、一九一二年に四十一歳にして友人の促しによって詩に回帰する。彼は、「自分ではわからない青春への回帰によって二十年を隔てて詩に感興を覚えるようになった」と述べている。外的原因も無視できないが、彼は「長周期の記憶あるいは共鳴があって、それがにわかに己の性癖、力、遠い過去の希望も返してくれるのではないか」と述べている。これについては人生の入口および出口近くに詩作のピークを持つ詩人が少なくないことを付言しておこう。さしあたりT・S・エリオットあるいはリルケが念頭にある。

最初には、ことばの響き、その「音楽」への敏感性を自覚し、さらにそれを味到しようと努力するようになる。「語を耳にすると私の中で自分でもわからない和音的相互依存関係や皮一枚下まできている律動の、まだ声にならない存在〔もの〕が揺らいだ」。この「うたう状態」の始まりは「演奏前のオーケストラの楽器の低い呟きのような甘美」であった。彼は自分の中に詩人を認め、それに馴染み、成り行きに任せる。ここで彼が「当時は難問に取り組むことにとうの昔からうんざりしていた」と述べているのは事実であろう。彼が書き続けてきた「カイエ」による探求は「地獄のような悪循環」になっていた。彼の中に再生した詩への傾斜は、救いとして、さらに青春の再生として感受されている。

これは、彼を「若きパルク」制作に誘い込む陥穽であった。しかし、彼は詩に回帰してもこの地獄から逃避できなかった。「新しい季節の初花の下には抽象的問題と謎とが群集していることをすぐに認めた。見たいと思うところには必ずあった。詩にも」。「粗書きの幸福の後、かいま見た将来の美、内面の声のこの神のような囁きの後、まだ指紋のついていない断片がすでに生れているというのに、そこから苦役にむかって、このざわめきを文節し、断片を繋ぎ合わせ、全知性に問いかけ ……そして待たねばならないのであった」。「最初の一句はミューズから与えられる。後は努力である」と彼は別のところで言っている。ある日、「すでにある部分の構築と推敲とに疲れて」絶望的嫌悪感に陥り、ある部分の断念を自分に言い聞かせて、雑踏の中を彷徨する。一九一三年十二月のことである。

神秘家は、召命の後、ある時期には aridity(不毛)に耐えなければならないと聞く。このことは詩人にもある。

彼はあるカフェに入り、散らばっている新聞に、あるドイツの大公が、愛人であった女優の演技と台詞を具体的に細部にわたって記してあるのに遭遇する。それは「まさにしかるべき瞬間に到来して、もっとも予想外の経路によって必要であった救いをもたらした」。これはサン・ピエトロ広場のオベリスクが建立中途で進退谷〔きわ〕まった時、厳禁されている沈黙を破った「綱を湿せ」の一声が綱の強度を増して破局を救ったのに例えられている。劇はシラーの「メアリ・スチュアート」の処刑寸前の一節を音の高さから沈黙まで記述したものであるが、どうして彼を救ったかは自分ではわからないという。

この時までに彼が現在刊行されている「若きパルク」の草稿のどの段階に達していたかは、それらの多く、特に初期のものに日付がない以上、確定できないが、この特権的な救いによって、「パレット」と「断片」にすっと筋が一本通ったのであろう。棋士が勝負を進める時、あらゆる可能性を読むうちはまだ駄目で、他の可能性がおのずと排除されてすっと一筋の道が見えるようになる必要があるというが、それに似た転換である。

パレットに絵の具を並べるようにさまざまの語や観念とその相関とが乱舞するのは、分裂病の言語危機においても見られるところである。分裂病が創造性にもっとも近づく一時期である。もし、そのまま推移して、パレットが自動的に増殖し、ついには認知が追いつけないほど加速され、また、語の「自由基」ともいうべき未成の観念の犇めきが意識されるようになれば、病いのほうに近づく。精神は集中に過ぎれば不毛になり(それゆえカイエの「地獄」、散乱にすぎれば解体の危機に近づく(「パレット」の時期)からである。あらゆる可能性をきわめようとしつつ、精神の統一を強化しようとする矛盾した自己激励は、時に創造的であるが、しばしば袋小路に自らを追い込む。


この瞬間によって「若きパルク」に坦々とした道が開けたわけではない。一九一四年夏には第一次大戦が始まる。早く「方法的制覇」「鴨緑江」によってこの危機を予言していた彼は、後の有名な論文「精神の危機」(一九一九年)に見るごとく、自己を西欧(彼の場合はほとんど英国とフランス)と同一化していた。「パルク」をおのれの個人的な最後の詩とするつもりの彼は、文明の破局によってこれが最後のフランス詩となる可能性に思い至っている。かれは徴兵を覚悟し、妻子を疎開させ、パリに残留して詩作を継続した。「若きパルク」は「軍神マルスの相のもとに書かれた」と彼はいう。「パルク」がどういう詩であるかはさんざん論じられてきた。「内容でなく形式が私の自叙伝である」と詩人自身は韜晦している。形式とは何であろうか。それが構成であれば、純粋予感というべきもので始まり、比較的唐突な肯定が喚起されては次第に否定的なものに転調変化しつつ、この反復によって次第に深く沈下してゆくという構成を持っている。周知のように最終的な形は、昇る太陽に向かって感謝しつつ乙女が立ち上がって終わるのであるが、一九一六年初めの第四稿では、この詩句の後、再び下降が始まり、入水に終わろうとして中断する。彼は一八九六年秋ロンドンで自殺未遂をしている。引き返そうとしてはさらに深みに下降する形は知的な自殺者の行動にしばしば見られる。

第一部といわれる入水への暗示に終わる三二四行の後、下降の余波はありつつも再生と睡眠へ覚醒へと移行する現在の形は一九一六年秋の第五項からであり、一九一七年初頭にはほぼ完成する。この間にあるのは、パリに迫っていたドイツ軍が撃退されたヴェルダン戦である。彼が同一化している文明の危機が彼の中の何かを変えた。さらにこの時期までの彼は、別の詩となる予定のものも「若きパルク」に投じている。あたかも備品さえ缶に投じて走る絶望的な船の観がある。ところがこの時を契機に「パルク」の一部、時には一句を本歌として「魅惑」の諸詩篇が生まれてゆく。収斂から発散への転換が行われたということができる。

この変化と並んで、ずっと題が決まらなかったこの詩に「若きパルク」LA JEUNE PARQUE の名が与えられる。それは私には PAUL VALÉRY のアナグラムに感じられる。なお、本歌の見つからない「魅惑」詩篇に「失われた酒」LE VIN PERDU があるが、これは VERDUN のアナグラムではないだろうか。内容も「失われた血」を歌ったものである(「精神の危機」に同じ比喩が使用されている)。両者相まって一九一六年夏が彼にとってもヴェルダンであったことを示唆するように私には思われる。(中井久夫「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月)


■「訳詩の生理学」より
散文を歩行に、詩を舞踏に例えたのはポール・ヴァレリーである。T・S・エリオットはこれにやんわりと異議を唱えて、詩と散文とはそれほど明瞭に区別されるものではないと述べている。

これは英詩とフランス詩との相違をも写し出していて、英詩には「歩行的」な「語り」が現代に至るまで少なくない。フランス詩、少なくとも二十世紀のフランス詩とは全く異なる。例外としてサン=ジョン・ペルスの「アナバシス」を挙げることもできるかもしれないが、この「語り」は英詩の基準からすればおおよそ曖昧模糊としたものである。

その底をさぐれば、詩と散文との両者を媒介〔なかだち〕し、そして本来はエクリチュール(書かれたもの)でなくエノンセ(口を衝いて出るもの)である詩劇というもののイギリスとフランスとの違いが絡んでくるだろう。フランスのラシーヌ劇の詩的完成はシェイクスピアの及ばないところであるが、ラシーヌは何よりもまず詩として、それも厳格な規則に従ったアレクサンドラン詩形の技巧の極致として耳を打ってくる。これに反してシェイクスピアを純粋に詩として聴く人はあるだろうか。ラシーヌの舞台が観客からいわば無限遠にあるのに対して、シェイクスピアの観客は舞台の上にあがって、そのダイナミズムに合流する。

詩作者としてのヴァレリーが「詩とは舞踏である」という時、彼はおそらくソロで舞踏する姿を思い浮かべていたのであろう。そうだとすれば訳詩というものはデュエットでの舞踏である。原詩の足を踏むかもしれないし、完全に合わせることはできないだろう。程度の差はあってもぎこちないパートナーだろう。しかし、それにもかかわらず、散文の翻訳とはちがう。訳詩者はただ並んで歩き、たかだか歩調を合わせればよいのではない。もっと微妙で多面的な波長合わせが必要である。手を取り合い、足をからませ、肌を合わせ、時には汗を浴び、体臭をふんだんに嗅ぎ、思いがけない近さで顔の造作を眺め、そして醒めていながらも陶酔を共にしなければならない。訳詩者の「舞踏」はそういうものである。したがって、訳詩の過程によって訳詩は原詩よりも劇詩に近づく傾向があって、それはたいていの場合にそうあるよりほかないものである。(中井久夫「訳詩の生理学」)
最後にーー、これまで日本語とフランス語ならフランス語との言語的懸隔は翻訳の最大の敵のように思われてきた。これは口実に過ぎないと私は思う。ヴァレリー詩のイタリア訳やスペイン訳は原詩のパロディにならないための大層な努力が払われていて、しかもどこか滑稽さをまぬかれないところがある。標準日本語の詩の吉利吉利語訳というものを考えてみればわかりやすいであろう。そういう意味では日本語のほうが有利なのである。

私は現代ギリシャ語の詩の翻訳から入った。ここから入らなければ私は訳詩者にならなかったであろう。言語学的には双方の隔たりは著しい。しかし、母音がアイウエオの五個、語尾が母音でなければ n あるいは s 、まれに r で終わり、せいぜい部分的にしか押韻できず、文語と口語との差が大きくてしかもお互いになしではすまず、抽象名詞が長い単語でしばしば不細工であり、詩の一行が長い(しばしば十五から二十数シラブル)などの点に目を向ければ、現代ギリシャの詩人は詩の言語としての現代ギリシャ語に、日本の詩人が日本語に直面するのと同じ困難を感じているであろうと思われた。彼らがどのようにそれに挑み、しばしば優れた詩を生み出しているのかを知ったことが私を訳詩の世界に導いたのであった。(中井久夫「訳詩の生理学」1996年)


■中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」より
ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。

きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……

(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)

もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。

視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。(……)

私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている(……)

私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」初出1992年『精神科医がものを書くときⅡ』所収)


■ヴァレリー「散文詩九編」後記
散文詩と詩、特に自由詩とはどうちがうのか。日本語現代詩を諧謔的に「改行された散文詩」という人がいる。しかし、私見によれば、改行には意味がある。まず、改行は一拍子あるいはそれ以上の休止を意味する。次に改行のたびに音はリズムもアリテラシオン(頭韻)もアソナンス(母音の響き合い)も質を変えてよい。意味も跳躍を許される。すなわち、改行は詩に転調、変調、飛躍、回帰を許す。そして、改行は朗読を、ゆるやかにであるが、指示する。特に、長い一行は早く、短い一行はゆっくりという読み方を促す。

しかし、散文詩は違う。定義からして基本的に一パラグラフが一行の詩と私はみなす。

もちろん、散文詩は詩としての肉体を持たないわけではない。実際、訳出の上で、原文を筆写し、音読を繰り返すことが突破口を開いた力の一つである。しかし、詩の訳出が軽い憑依状態であるとすれば、散文詩の訳出は数式を解くのに近いクールな快感を伴う営みであった。(ヴァレリー「散文詩九編」後記 中井久夫、2005年)


■「私と現代ギリシャ文学」より
自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。

ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)


■「ギリシャ詩に狂う」
突然、現代ギリシャの詩が私を捉えた。「古代」の間違いではない。現代ギリシャが、ニ人のノーベル賞詩人セ フェリスとエリティスを初めとする優れた詩の源泉であるという知識はかねてよりあった。だが遠い世界だった。第一、私は詩人ではない。

若い友人の結婚式のスピーチを考えていた。甘美で格調のある祝婚の詩はめったにない。たまたま英訳エリティス詩集が書架にあった。たちまち冒頭の「エーゲ海」に吸いこまれた。なんとか日本語にした。結婚式のスピーチ代わりにはなる程度のものができた。

次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香と。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。

原文を少し入手した。現代ギリシャ語。鋭い言葉である。母音は短いアイウエオだけ、それもイ、エが多いから。そして我が国語純化論者なら嘆くだろう”乱れ”。文語が厳存し、ロ語は江戸弁のままという粗さで、しかも両方が混じる。生まの方言で論説や科学論文を書くとすれば、雅語や漢語を加えねばならぬ。そこに生じる混乱、この荒さ、鋭さ、変化が、例えばエリティスの傑作「狂ったザクロの木」になるのだろう。

私の訳で紹介しても甲斐ないことだが、歌い出しは、「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂 ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群とともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。(中井久夫「ギリシャ詩に狂う」1984年)


■「「私の中のリズム」--『現代ギリシャ詩選』を編んで」
……私の訳した詩人四人中三人までが俳諧を作っているのでもわかるとおり、ギリシャの現代詩人で俳諧に親しんでいる人が多いらしい。シリアでもそうらしいことは奴田原睦明『エジプト人はどこにいるか』(1985年)という本にあるから、レヴァント地域の詩的・知的風土だろうか。あるいは、古代ギリシャの二行詩、中東の四行詩以来の伝統なのだろうか。とにかく、セフェリスの、私の訳が「たそがれの暗さの中でも/あけぼのの初の光のなかでも/ジャスミンの/かわらぬ白さ」となっている原詩は、五・七・五合計十七シラブルである。そして、これはみすず書房の吉田欣子さんの慧眼どおり「あけぼのや 白魚の白きこと一寸」(芭蕉)の本歌取りに違いない。こうなれば感受性の親近性もありそうである。(中井久夫「「私の中のリズム」--『現代ギリシャ詩選』を編んで」1986年)


■「私と外国語」
翻訳は徹底的な、しゃぶりつくす読書である。音読可能であることを心掛ける。自分でテープに入れて聞く。そしてひっかかるところを直す。朗読してもらうこともある。専門の書籍の場合には原書にはなくても小見出しをつけ、索引を作り、さらに引用の索引まで作る。比較的初心の人に読んでもらって理解しにくいところは改める。ここまですると、散文の場合には原書を読む気がしなくなる。訳から原典がいつでも喚起されてくるからである。ところが、詩の場合はそうではない。すぐれた詩には、翻訳すると、ますます原詩に淫するようにさせるものがある。散文と詩との相違である。

五十歳になって、現代ギリシャ詩の翻訳に手を染めたのは私自身にも謎である。現代ギリシャの詩に挑戦したのではなく、向こうから語りかけてきたのである。とにかく私は言語の「意味の縁暈(halo) 」 や音の響きや、その起こす口腔感覚に異常に敏感になった。私は半ば冗談に、「病[やまい]だれ」の言葉ばかり二十年書いてきたので私の言語意識が反乱したのだろうと言うことにした。この異常な状態は一年ほどで下降に向かった。たまたま中国の留学生がやってきて、私は中国語を使わなければならなくなったということもある。

こう書いてきて、私はさぞ何カ国語か喋れるだろうと思われそうな気がしてきた。私は日本語でも聞き取れないことが多く、私と話す人は、私の聞き返しの多さにうんざりされるはずである。英語すらまともに話せないのが私の実情である。耳が悪いのである。(中井久夫「私と外国語」1994年)



■「翻訳の世界」翻訳者選者としてのコメント(1992年)
①美わしのベンガル(ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅彦訳)
②官能の庭(マリオ・プラーツ、若桑みどり訳)
③パウル・ツェラン全詩集(中村朝子訳)
④フランス中世文学集3 笑いと愛と(新倉俊一、神沢栄三・天沢退二郎訳)
⑤比較精神医学(H・B・マーフィ、内沼幸雄他訳)
⑥地中海Ⅰ、Ⅱ(F・ブローデル、浜名優美訳)
⑦カミュの手帖(大久保敏彦訳)
⑧世界宗教史Ⅲ(ミルチャ・エリアーデ、鶴岡賀雄訳)
⑨オランダ・ベルギー絵画紀行(フロマンタン、高橋裕子訳)
⑩現代ロールシャッハ・テスト体系(エクスナー、秋谷たつ子他訳)

臼田訳は一読脊髄を快い戦慄が走る。熱帯樹を伝う雨の雫、稲田にこもる湿気がそくそくと身に迫る。体言止め、SVO文の多用。しかも違和感なく、立原道造より出て彼を超える詩語の可能性を示す。早世したベンガル詩人の原語よりの訳という珍しさをはるかに超えている。 『官能の庭』の訳には敬服。ツェラン単独訳は力業。ただ「ぼく」「お前」はリルケ邦訳ですり切れた代名詞かと思う。『フランス中世文学集』はチョーク臭のない学者と詩人の愉しい共作。読みとおせる長い訳詩はなかなかない。重要な大部の学術書訳出の努力に感謝し、文体の一層の洗練を願うーー「のだ」「なのだ」の節約など。妄言多謝。(中井久夫「「翻訳の世界」翻訳者選者としてのコメント」1992年)
したたるほどのイメージが(いや視覚だけでなく聴覚も嗅覚も身体感覚さえも) 鮮明強力に立ち上がってくるすばらしい例を挙げたい。………「美わしのベンガル」(ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅彦訳)…(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に



■「詩を訳すまで」
私は多くの文章を暗誦したり筆記する習慣がある。よい文章とは口唇感覚にも口腔感覚にも発声に参与する筋の筋肉感覚にも快い。筆記感覚でさえうれしい。私には、言語の深部構造とはチョムスキーのいう構造主義的なものを突き抜けて、こういう生理的・官能的なものにまで行き着くのではないかとひそかに思っている。実際、同じ口唇感覚であり口腔感覚であり、ノドと下顎を動かす筋肉であるためか、私に合った詩や散文を現前させている時には、ほとんど現実の果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚を感じる。 

果実が溶けて快楽〔けらく〕となるように
その息絶える口の中で
その「不在」を甘さに変えるように
――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」第五節――

しかも、詩の果実は実在の果実と違って口の中に消えてもまた再生する! 
五十歳の秋になって、何度目かの言語の節目が現れた。偶然の機会から詩を訳すようになったのである。「精神」「分裂」「傷害」「解体」というたぐいの語ばかりを語り、そういう字を書くことに私の言語意識が耐えられなくなって反抗を起こしたのであろう。ヴァレリーは「ほんとうに言葉が歌うのだよ」と言っているが、私にも、一つ一つの日本語の単語がほんとうに歌うように感じられる時期があった。その伴示、類語、類音語、音調、イマージュ、色調、粘膜感覚と筋肉感覚などで一語一語が重すぎるほどであった時期があった。頭韻や半階音が寝床までつきまとったこともあった。訳詩が完成して一年ほど経って、それが消えていることに気づいた。その時の詩集のページは知らん振りをして横顔を見せている少女のようであった。私は「詩がさっぱりわからない」という人には詩がこういうふうに映っていることを理解した。(中井久夫「詩を訳すまで」1996年)


■「多田智満子訳『サン=ジョン・ペルス詩集』との出会い」より
調布への電車は新宿から出る。よく駅ビル五階にあった山下書店に寄った。この書店で私好みの本に出会うことが多かった。

それでも、その日は特別の日だった。ふと手に取った本の第一ページから、字が、行が、行の並び行くリズムが、私の眼に飛び込んできたからである。

「棕櫚…!/あのころおまえは緑の葉の水にひたされたものだ。そして水はまだ緑の太陽のものであった。おまえの母の下脚 (はしため)たち、大柄で肌つややかな娘らがふるえているおまえのそばで熱いふくらはぎをうごかしていた…」
「植物の熱気、おお 光、おお 恵み!/それからあの蝿たち あの種の蝿ときたら、庭のいちばん奥の段へと、まるで光が歌っているかのように!」
「想いだすのは塩、黄いろい乳母が私の眼尻からふきとらねばならなかったあの塩。/黒い妖術師が祭式に際してしかつめらしく宣言していた、〈世界は丸木舟のごとし。ぐるぐる廻り廻って、風が笑わんとするか泣かんとするかをもはや知らぬ.…〉/するとたちまち私の眼は 輝く波にゆられる世界を描こうと努めて、木の幹になめらかな帆柱を認め、葉蔭に檣楼をまた帆桁を、蔓草に支檣索を認めるのだった。/そのしげみでは 丈高すぎる花々が/鸚哥の叫びをあげてかっと開くのであった。」

今こうやって写してゆくと、隠してある頭韻を初め、訳詩者としてのさまざまの工夫がわかる。しかし、その時の私は分析的な見方など思いもよらなかった。熱帯の過剰な光と熱気の全体が私を襲った。それは、棕櫚への呼びかけから始まって、樹林の帆船の装具、かっと口を開く丈高い花々のインコの叫びという諸感覚の陶酔的混乱までクレッシェンドに高まるのだった。もちろん、これは序の口に過ぎなかった。その本は、象牙色の表紙に金文字で『サン =ジョン·ペルス詩集/多田智満子訳/思潮社』とあった。一九六七年の初夏であった。

私はただただ驚嘆した。フランス語の詩、特に象徴詩には、少年時代に親しんだことがあり、いくつかは暗唱するまでになっていたが、学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)。(……)

あたかも、私の仕事は技術的に一○年を待たなければ突破できないような困難に際会し、そして上司との間も微妙になっていた。私は、それまでの仕事をまとめてチェコの雑誌に発表し、精神科に替わった。当時、"精神分裂病"はデルフォイの神託になぞらえられていた。そこではまだ現状を変えるために少しはやれることがあるように感じた。

精神科で診療を始めたことは、私には、文学への回帰でもあった。ちょうどその時に出会ったのが多田さんのサン=ジョン・ペルス詩集であった。いっとき、私は、それまでの日本詩を挨っぽいものと感じた。それほど、彼女の訳文は、むいたばかりの果実のように汚れがなくて、滴したたるばかりにみずみずしかった。

「..…ところでこの静かな水は乳である/また 朝の柔らかな孤独にひろがるすべてのものである。/夜明け前、夢の中のように曙を溶かした水で洗われた橋が空と美しい交わりをむすぶ。そして讃うべき陽光の幼い日々が いくつも巻いたテントの棚をつたって じかにぼくの歌に降りてくる。/…/いとしい幼年期よ、追憶に身をゆだねさえすればよい…あのころほくはそう云ったろうか? もうあんな肌着などほしくない/…/そしてこの心、この心、ほらあそこに、心は橋の上をずるずると裾ひきずって行くがよいのだ、古びた雑巾ぼうきよりもつつましく 荒々しく/くたびれ果てて…」

私は、そのような形で幼年期に訣別したわげではなかったけれども、いっときは、幻想の中で、カリブ海で幼年期を過ごしたかのような錯覚に陥ったほどであった。この今は三四年を経ていかにも古びた詩集は、私にとって大きな里程標となってなお本棚にある。(中井久夫「多田智満子訳『サン=ジョン・ペルス詩集』との出会い」2001年)

………

中井久夫は、『日時計の影』の「あとがき」でエリティスの「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」の訳について次のように書いている、《…拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がごみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である》。

この長詩は一から十四節まであるが、ここでは冒頭と五だけ抜き出す。


アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩

オディッセアス・エリティス  中井久夫訳




太陽が初めて腰をおろしたところ、
時が処女の瞳のように開いたところ、
風がハタンキョウの花びらを雪と散らしたところ、
騎兵が草の葉を白く光らせて駆け抜けていったところ、

端正なスズカケの樹冠がしなうところ、
高く掲げた長旗がはためいて、水と地とに尾を揺らすところ、
砲身の重さに背が曲がるのではなく、空の重みに、世界の重みに背がしなうのである。

世界は光る、きらりと、
朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。

今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。

今、苦悶が総身に覆いかぶさり、
骨の浮いた手が、花を摘んでは握りつぶす、一本 また一本と。
水無瀬の河の涸れ谷に憂いのみ多くして、歌は死に、声は絶え、
居並ぶ岩の列は髪ひややかなる僧のごとく、声を殺して
たたなわる原野を横ざまに切る。

身も心もこごえる冬。不運に不意を打たれる予感。
猪背〔ししせ〕の虚国〔むなくに〕の山並のたてがみ。

空の高みに禿鷹は舞う、高く高く、空の小さなパン屑を取り合って。




太陽よ、太陽は万能ではなかったか?
鳥よ、鳥は絶えず動いてやまない喜びの瞬間ではなかったか?
かがやきよ、かがやきは雲の大胆ではなかったか?
庭よ、庭は花の泰楽堂ではなかったか?
暗い根よ、根は泰山木を吹くフルートではなかったか?

雨の中で一もとの樹がふるえる時、
魂の立ち去った身体を不幸の女神が黒ずませてゆく時、
狂った者がおのれを雪で縛る時、
ふたつの眼が涙の流れにゆだねられる時、
その時、鷲は若者のゆくえを尋ねる。
鷲の子は皆、若者がどこへ行ったかときづかう。
その時、母はわが子のゆくえを尋ねて溜息をつく。
母たちは皆、その子のゆくえをきづかう。
その時、友は尋ねる、わがはらからのゆくえを。
友は皆、いちばん若いはらからのゆくえをきづかう。
指が雪に触れれば指は雪の熱さにたじろぎ、
その手に触れれば手は凍りつき、
パンを噛めばパンは血を滴らし、
空の深みを見やれば空は鉛の死の色となる。
なぜだ、なぜ、なぜなぜなぜ、死は体温を与えず、なぜ、こんな聖餐でもないパンが血を流し
なぜ、こんな鉛の空があるのだ、いつも太陽が輝いていたところに?

エリティスの『アルバニア戦線にたおれた一少尉のための悲歌』の翻訳には、私自身の戦争体験たとえば機銃掃射を受けた経験が役に立った。あの詩の前半には、私のもっともすばらしいと思う詩句があり、最初の一節は私がひそかに誇る部分である。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)


2019年8月22日木曜日

囮の女

ああ、その言い放つようなぶっきらぼうな言葉遣い。それがやっと出た。蚊居肢子の欲望の原因のひとつが。あのときのあの言葉と同じ質の。ーー「これ、あげる」

幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因 cause du désir」とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのことだ。逆に「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

(対象aとしての)「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、私訳)


「唯一の徴 der einzige Zug」と近似した対象、それは骨象と呼ばれる。骨象とは身体に突き刺さった骨であり、固着である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


この骨象aこそサントームである。《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)

真理とは嘘である


サントーム=S(Ⱥ)=骨象aだ。

S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目(=欲動の固着)である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)


だが、あなたはサントームを消そうとばかりしてきた。蚊居肢子の「欲望の原因」を消そうとばかりしてきた。

「欲望の原因」、すなわち「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象を。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)


「欲望の原因 cause du désir」とは、「享楽の対象 objet de jouissance」のことである。

問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、「享楽の対象 objet de jouissance」、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)


享楽の対象、すなわちモノである。

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


やむえないこととはいえ、だが・・・これ以上いうまい。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)


あなたは、アレ以後、常に囮の対象として振舞ってきた。そうではないだろうか?

(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)
愛自体は見せかけに宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)


i(a) の下のaは見えなくなってしまった。




倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

前にも言ったが、蚊居肢子は真から女に惚れたのは2度だけである。14歳のときと59歳のときだ。前者の女とは長い苦しみのあとでようやく結婚に漕ぎつけて、9年で別れた。

結婚は、対象(パートナー)から「彼女のなかにあって彼女自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因としての対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

後者の女は還暦直前の一ヶ月。あれは生涯の刻印として必ず居残る。





あなたは知りたいといったことがあるから、こう書いている。だがほんとうは知りたくなかったはずである。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2014)


そう、この愛の条件の数学的定式を知りたくなかったのである。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン l' automaton de l'amour」)である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように(テュケーとオートマトンの合金)。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(ミレール『愛の迷宮  Les labyrinthes de l'amour』、Jacques-Alain Miller、1992)
――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が愛の引き金を引いたdéclenche l'amourのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)

ーー上の二例のどちらだったかぐらいは、あなたはよく知っている(知っていた)筈だが。

これらはくりかえし引用してきた文だ、--あなたに向けて。だがあなたは愛の条件を示すことにおいては凡庸だといわざるをえない詩人の言葉ににひきこもっているばかりだった。まともな詩人の言葉も真には引き受けていない。知りたくないのである。夢を見たいのである。

悪の根は夢想である。夢想はたんなる慰安であり、たんなる数多の不幸である。la racine du mal, c'est la rêverie. Elle est l'unique consolation, l'unique richesse des malheureux(ヴェイユ「 真空への注意 attention à vide」)
どんな形態をとっていようと例外なく、夢想は虚偽である。夢想は愛を排除する。愛はリアルである。sous toutes ses formes sans exception elle est le mensonge. Elle exclut l'amour. L'amour est réel. (ヴェイユーーブスケ宛 Simone Weil dans une lettre à Joë Bousquet)

もっとも次の文まで読み込めというのは無理な話ではある。

空虚は全き充溢以上の充溢である vide est plus plein que tous les pleins。空虚にまで達するなら人は救われる。なぜなら神がその空虚を埋めてくれるから car Dieu comble le vide。(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵 』)
精神分析が明らかにしたのは、神とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)


→《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)

サントームとは、「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」である。それがΣ=S(Ⱥ)である。S(Ⱥ)、すなわち穴Ⱥの名。トラウマの名=身体の出来事の名=身体の記憶の名である。




愛は「意志からは決して jamais d'un vouloir」

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ jamais d'un vouloir」。(マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)
Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir.

誰の訳かしらないが、すくなくとも「けっして欲することからではないわ jamais d'un vouloir」は、「意志からは決して」のほうがいいな。

愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)


ーー愛は「意志からは決して jamais d'un vouloir」。

愛は無意志的 involontaire である。

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの l'involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの force à penser、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章、第二版、1970年)


愛は強制された運動の機械である。

強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)


愛は自動機械 automatismeである。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動機械 automatisme 」という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


愛は無意識のエスの反復強迫である。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動機械 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


愛の自動機械こそ、愛の条件である。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン l' automaton de l'amour」)である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように(テュケーとオートマトンの合金)。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(ミレール『愛の迷宮  Les labyrinthes de l'amour』、Jacques-Alain Miller、1992)


愛はアフロディーテの一撃である。

愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)


男の愛はマザコンかナルコンである。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が愛の引き金を引いたdéclenche l'amourのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)


男の愛はフェティッシュである。

ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désir(対象a) です。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりで内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。
――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実 La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。

とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュとしての欲望の原因[causes du désir, qui sont comme des fétiches]が愛の過程を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性に愛の対象選択 [le choix amoureux des femmes]に役割をはたします。(Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)


女の愛は被愛マニアである(フロイトの言い方なら主にナルコン)。

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

《男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛マニア形式 la forme érotomaniaque」》(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)

でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛マニア的です[Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)


例外は?

愛はビジネスである。

愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。………

われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。…(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

主人の言説の時代には症状の構築が可能であった。最晩年のラカンの表現をつかえば性関係を構築するとは、《性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]》(ミレール、2008)。妄想とは悪い意味ではない。「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」に対する補填である。

ところが現在はエディプスの斜陽による資本の言説の時代である(参照)。

資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、シンプルに「愛の事柄 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

ツイッター装置とは、基本的に資本主義に歩調を合わせている装置ではなかろうか? もっともブログなどもにたようなものである。

資本の言説はカップルを創造しない。ラカンは…とても確信的にこれを示そうとした、資本家と労働者によって構成されるペアは、主人と奴隷の近代的ヴァージョンではないことを。

資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。…英語圏のひとびとが使用する "an affair" という表現は、実に症候的である。affair とは、何よりも先ず、ビジネスのことである(すなわちラブアフェアーとは、愛のビジネスである)。…

資本の言説は、愛の事柄 choses de l'amour について何も語らない。人々が《アフェアー affaires》と呼ぶもの、つまり生産と消費のみについてのみ語る。以前の言説(主人の言説内部の四つの言説)とは異なり、現実界的非関係 non-rapport réel を補填しないのである。…この意味は(われわれの時代は)「性関係はない」という事実にいっそうの光を照射するということだ。以前の時代に比べ、性的非関係 non-rapport sexuel の孤独 solitudeと気紛れ précarité の帰結がさらにいっそう暴露されたままになっている。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

以上、フロイト・ラカン派がこう言っているということであり、あまりマにうけなくてよろしい。というかラカンの対象aはとっても難解でなかなかつかみがたい。

穴ウマと穴埋め(四種類の対象a)


ミレールでさえ、1990年代から2000年前後の過去と最近ではかなり違ったことを言っており、最近になってフェティッシュとしての対象aが、サントームΣに近似していると言うようになった。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome 概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

ここではデュラスでいいのである、ーー愛は「意志からは決して jamais d'un vouloir」

愛のビジネスをやっている連中だけである、意志的な愛は。

とはいえ最低限、ドゥルーズ=プルーストぐらいはつかんでいるほうがいいかも。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970年)

もう騙されたくなかった。

私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美 la beauté de Balbec は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。…

未知の表徴 signes inconnus(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴 signes en relief)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。(プルースト「見出された時」)



2019年8月20日火曜日

すべての女は狂っている




すこしまえーーひと月だったかふた月ぐらい前だったかーー、SNSで拾ったのだけれど、とってもすてきな写真で、とってもすてきな少女だな、こんな少女が「人生の親戚」にいたらよかったのに。

扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)

シチュエーションは違うけど、キチガイ女予備軍の気配だってふんだんにあって胸キュンしたままだよ。少女を覆うような背後の樹の影がいいんだろうか。



素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


ーー谷川俊太郎は、こんな詩を書いておきながら
すぐ別れちまうんだよな、




一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
すべての女は狂っている toutes les femmes sont folles (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)

………

「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女の表象の排除(女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。そして女の表象の排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…

話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女の排除(女というものの排除 la forclusion de la femme)、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 


男というものは存在する、ただし詐欺師として。ファルスの詐欺師である。ここでそうミレールは言ってることになる。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。…両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
女の表象の排除 (女性のシニフィアンの排除 forclusion de signifiant de La femme )がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアン(表象)は、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas” de Lacan.Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)


ファルスという詐欺を取り払ってしまえば、女たちだけがいる。

世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ il n'y a que des femmes、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(フィリップ・ソレルス Philippe Sollers『女たちFemmes』鈴木創士訳、邦訳1993年 原著1983年)

ーーなんとラカンの若い友人だったソレルスは、これをラカンの死の2年後、1983年に言っているのである。




《女たちだけがいる il n'y a que des femmes》と似たようなことは、ジジェクも言っている、《男はファルスを持った女である》と。

標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。

しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男はファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。

《 我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「棒線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)

男というものはたんなる表象(シニフィアン)である。そんなものは存在しないに決まっている。

例えば、最晩年のラカンはこう言っている。

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas.(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)

この二文を混淆させれば、「象徴界は存在しない」となる。これが次の文の内実である。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

そして、

ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallusとは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン, S18, 09 Juin 1971)
見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)

つまり言語は仮象であり、象徴界も仮象である。

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)

男というシニフィアン自体、妄想であり仮象に過ぎない。

言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)

さらにいえば世界は仮象である。世界は存在しない。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

世界は仮象である、ということは、何よりもまず、

女というものは存在しない。同様に、男というものも存在しない。The Woman does not exist, neither does The Man. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

である。ラカンにとって存在するとは、象徴界に存在するという意味である。「存在」という語で、現実界になにものかがあるか否かは問うていない。

すべてが象徴界ではない。象徴界の彼岸には言語外の現実界がある。すなわちすべてが仮象ではない。

すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)

現実界には話す身体がある。話す身体とは何か? 

自ら享楽する身体である。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。…

自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

ようするに世界には女性の享楽しかない。女性の享楽、すなわち身体の享楽であり、他の身体の享楽であり、他の身体の症状である。

穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatisme を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

ひとりの女のみがいるとは女たちのみがいるということである。

そしてひとりの女は、ファルス(欠如)ではなく、欠如の欠如である。

女は何も欠けていない La femme ne manque de rien(ラカン, S10, 13 Mars 1963)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)[去勢]を置いた場に現れる。…それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン, S10, 28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)

こうして世界には女たちしかいない、ということになる。《世界は女たちのものだ 、いるのは女たちだけ Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes》( Sollers,1983)


Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller 2011


女というものは存在せず女たちしかいない、ーーラカン用語を使って、これを「女というものの外立 ex-sistence de la femme」と言うことができる。

神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)




ーーとは、こうでもある。




我々はこの拒否を、「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

これゆえ人はみな性的妄想をする、《各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]》(ミレール、Choses de finesse en psychanalyse III,2008)

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。 (ラカン, S21, 19 Février 1974 )

男というものは仮象にすぎないにもかかわらず、人はファルスの詐欺師が存在することを信じ込んでいる。したがって妄想するのは女というものについてのみである。男というものについてはどんな女も妄想しない。女たちは、男たちと同様、つねに女というものを妄想している。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。

La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont, (ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)


フロイトは次のように言っている。

小児は、三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。…小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、赤ん坊はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎である。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

これがフロイトにとって人間の《知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb》の起源である。

そしてミレールは次のように言う。
科学が存在するのは、「女というものは存在しない la femme n'existe pas」からである。(ミレール「もう一人のラカン」Another Lacan、Jacques-Alain Miller)
精神分析は入り口に「女というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる。(ミレール「もう一人のラカン」1980年)

だが、こここではさらにこういっておこう、「人間の全知的活動があるのは、女というものが存在しないからである」と。

これをいくらか「哲学的に」言えばこうなる。

もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」(女の表象の排除 forclusion de signifiant de La femme)と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)


さらにジジェク風に言えばこうである。


想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、喪われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。

ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。

今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。

(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。

これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、喪われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での裂け目であり(その水準での裂け目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

簡単にいってしまえば、言語活動があるのはーーより厳密にいえば言語活動の反復、無限連鎖があるのはーー、「女というものは存在しない」=「女の表象の排除」があるためである。たとえばもし哲学者に「思考のせめぎ合い」なるものがあるのなら、それは究極的には「女の表象の排除」のせいである。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構 fictionnel である、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)

ーーここでバルトが言っていることは、現代ラカン派的にいえば、上に引用したJean-Claude Maleval, 2018のいう《参照の空虚 vide de la référence》、あるいは「女の表象の排除の穴」ーー《一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée [Ⱥ]》ーーにかかわる。

穴=トラウマであり、言語活動の不幸とは、言語活動のトラウマとも言える。



人生の親戚

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜、それはそこだ」

Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là. (マルグリット・デュラス Marguerite Duras『死の病 La maladie de la mort』1981)


1980年、38歳年下の同性愛者ヤン・アンドレア Yann Andréa と知り合う。

男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性が防水加工されてるわけはない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche.(マルグリット・デュラス Marguerite Duras, “The Thing”、1980)




男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958


ボクは言う、享楽は黒い夜の色。股の裂け目で宙吊りになっている。

リビドーは、空虚の色。裂け目の光のなかで宙吊りになっている libido[…] est couleur-de-vide : suspendue dans la lumière d'une béance(ラカン『フロイトの欲動』E851, 1964年)


ボクは言う、享楽の生垣での勃起萎縮。

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(ラカン, E853)


ボクは言う、メデューサの首ってのはとっても怖いよ

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


ボクは言う、女ってのは遠くから眺めてるだけなのが一番。





ボクは言う、まだ死にたくないや

死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


ボクは言う、このキチガイ女!

一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)


ボクは言う、マヌケ男のままでいいや

「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「女性の享楽」である。 (コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)


ボクは言う、

すべての女は狂っている toutes les femmes sont folles (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)


ボクは言う、いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。

暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっていたのを、僕は立て直そうとした。(……)
炎の起こったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた。マニ教の秘儀ではないが、切磋琢磨する性交をつうじて、生ぐさい肉体に属するものは、根こそぎアンクル・サムに移行し、まり恵さんには精神の属性のみが残ったようだ……

もっともまり恵さんは、僕がスカートの奥に眼をひきつけられているのに気づくと、両腿を狭める動作をするかわりに、あらためて疲れと憂いにみちているが、ベティさん式の派手な顔に微笑を浮べ、かならずしも精神プロパーではない提案をした。さりとて肉体プロパーでもなかったはずだが……

ーー今後もう私には、あなたと一緒に夜をすごすことはないのじゃないかしら? それならば、元気をだして一度ヤリますか? 光さんが眠ってから、しのんで来ませんか?

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。

ーーつまりヤラなくていいわけね。……私も今夜のことを、懐かしく思い出すと思うわ、ヤッテも、ヤラなくても、とまり恵さんはむしろホッとして様子を示していった。(大江健三郎『人生の親戚』)

2019年8月19日月曜日

内またねらふ藪蚊哉

スカートの内またねらふ藪蚊哉 (『断腸亭日乗』昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六)

………

なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

「蚊居肢」とは、あまりに強すぎる欲動を飼い馴らすための非意味のシニフィアンである。

(人間における)すべての障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)

幼少時、スタンダール的外傷体験をもった蚊居肢散人の苦肉の策である。

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)


蚊居肢シニフィアンのおかげで、いくらか《症状の間隔が間遠に》なったのである(もちろん年齢のせいもあるだろうが、ここではそう言っておく)。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


ま、ようするに「父の版の倒錯」シニフィアンである。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)


このシニフィアンは四文字が限界です。中上健次の発明した「路地」シニフィアンのように二文字か、荷風の「断腸亭」シニフィアンのような三文字が好ましいです。

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)


とはいえ、シニフィアンの発明程度では、効果がない方もいらっしゃることでしょう。

現在、評判の高い治療法のひとつとして倶利伽羅悶々療法があります。

刺青は、主体と身体との関係における「父の名」でありうる。Un tatouage peut être un Nom-du-Père dans la relation que le sujet a avec son corps. (J.A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)

外傷体験とはその定義上、身体の出来事であり、本来、身体で対応しなくてはなりません。

したがって刺青は効くにきまってんである。ヤクザ社会だけではなく、かなりの方が無意識的にこの効験あらたかな療法をやっている筈である。

現代ラカン派では、次のようなダイレクトな刺青刻印の話だってあります。

Such other feminine subject also at the exit of the adolescence chooses the tattoo as a mark of the link to the Other. She gets inscribed on her back the name of her father that she had lost during her early childhood. She had always been considered as 'the orphan'. "The lack of my father always pushed me towards the life during all these years", she says. By fixing this mark to the body in an indelible way, she tries at the same time to fix something of the cause which directs her love life. Here, the tonality is completely other, that is to say hysterical, and the body obeys the constraint of the castration. (Ordinary of the tattooed mark, Nassia Linardou - Blanchet, 2015


これこそ症状と同一化しつつ、かつ距離を取ることです。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

……というわけで、ここでの記述はゼッタイ安易二信用シナイデクダサイ。

あくまで現代ラカン派的「魔女のメタサイコロジー」の話です。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

とはいえ、《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)あるいは《エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971)以後の世界においてはことさら、なんらかの魔女に頼らねば、人はみな欲動の暴発に戦々兢々とせざるをえません。《私は欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。》(ラカン、S20、08 Mai 1973)

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)


2019年8月18日日曜日

「力への意志」としての女性の享楽

彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜、それはそこだ」

ーーなんかのメッセージかな、これ。だいたい誰の文なんだろ? バタイユのマダムエドワルダに似てるけど。スバラシイことは認めるよ、数年前のボクだったらゾッコンだったな。

ところで「黒い夜」とは、ラカン派用語では、穴(トラウマ)あるいはブラックホールのマテームS(Ⱥ) である。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)

さて散文的に応答しよう。

私はポエジーに接近する。しかし、ポエジーに背くために(ポエジーを失敗させるために)。Je m'approche de la poésie: mais pour lui manquer (バタイユ『ポエジーへの憎悪 La Haine de la poésie』)

応答というか、いつものように引用するけどさ。


◼️自体性愛=原ナルシシズム=自己身体の享楽
フロイトが語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。 

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
「自体性愛 auto-érotisme」という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

※ここでは自体性愛(自己身体エロス)における自己身体の最も深い意味の内実については、その引用をはずす。簡潔に言えば、異者としての自己身体である。それについては「穴の享楽 la jouissance du trou」を参照。



◼️自己身体の享楽=自閉症的享楽
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
自体性愛 Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
愛Liebe は欲動蠢動 Triebregungenの一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


◼️固着による不気味な反復強迫
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,2/2/2011)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)


◼️「黒い夜」の機能としての欲動の現実界
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatismeを為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)


◼️女性の享楽=自閉症的享楽(自体性愛)=享楽自体
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。…

自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


◼️女性の享楽=サントームの享楽=自閉症的享楽
サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


◼️サントームの享楽=固着の享楽
享楽の固着 fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, décembre, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition(MILLER、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


◼️享楽という原マゾヒズム=死の欲動
我々にとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自分自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であろう。Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb.(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

※参照:原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性



◼️欲動の飼い馴らされていない暴力
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)
力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
荒々しいwilden、「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 vom Ich ungebändigten Triebregung 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)
蠢動(欲動蠢動 Triebregung)は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)

以上、「力への意志」としての女性の享楽となる。よりくわしくは「エスとリビドーの相違」を見よ。

簡単に示しておけば、ドゥルーズ やクロソフスキーが既に強調しているように、力への意志=永遠回帰であり、フロイトは永遠回帰を反復強迫とし、ラカンは享楽回帰 retour de la jouissance と表現した。そして享楽回帰とは、サントームの享楽=女性の享楽に他ならない。

サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


で、ようするに「黒い夜」ってのは究極的にはこれしかないよ

静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)


フロイトは《力への意志 Willens zur Macht》を《エスの力能 Macht des Es》とも呼んだ。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


いやあ、ボクは女性的力への意志はとっても怖いよ、魅惑されないことはないけどさ。

どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)
女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは神秘だ。すなわち、性をめぐる情動と想像力のアウラである。エロティシズムは、ポリティカルレフトであれポリティカルライトであれ、社会あるいは道徳のコードによっては「固定」されえない。というのは、自然のファシズムはどんな社会のファシズムよりも偉大だから。性関係には悪魔的な不安定性があり、われわれはそれを受け入れなければならない。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”、2018)

ラカンの女性の享楽における「女性」ってのは本来的には解剖学的女性ではないのだけれど、解剖学的女性の享楽を受け入れることだって、まったくヤブサカではないさ、でももう還暦すぎだぜ。

宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)

フェミニストたちはこのカーミル・パーリアからいまもって逃げてるから、寝言しかいっていないけどさ。ここにセクシャリティの全核心があるのさ。

じつに不幸な歴史だね。あのポリコレフェミ連中の跳梁跋扈ってのは。

いやあ自由連想みたいに文章が浮かんでくるな、このごろは。

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012年)
追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。(カミール・パーリア Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、2011年)
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(カミール ・パーリア Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
私は、本能生活の非モラル性 amorality of the instinctual life において、フロイト、ニーチェ、サドに従っている。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

サドの名が出てきたのでこう補っておこう。

マルキ・ド・サドは、他者に苦しみをもたらしたと伝えられるが、半生涯を刑務所で過ごした。そしてマルキ・ド・サドの秘密はマゾヒズムであるとラカンは強調している。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
享楽への意志 la volonté de jouissanceは、モントルイユ夫人によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)
死への道…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


で、真のフェミニストからはずれて「常識的」ラカン派を引用すればこうだ。

驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 』2005年)
欲動Triebとは、主体自身が行きたくない場まで、主体を駆り立てる drive ことである。主体はすべてのコントロールを失う。すべての欲動の表出は暴力の要素を含んでいる。暴力なき欲動は、用語として矛盾である。「戦争ではなく愛し合おう Make love not war」は不可能な組合せである。(ポール・バーハウ、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998年)


話を戻せば、そもそも最近は、若いのだって逃げちまうはずだよ、冥界機械を露出させたら。ふつうはね。

何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998)


安吾は40歳のときーー三千代さんとの結婚一年前だな、ーーこう言ってるけどさ。

…そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)

どんなに頑張ったって、このくらいの齢までさ、男があの解剖学的女性の享楽にタエラレルのは。

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアスの神話)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)

ーーというわけで古典的な話だな。特殊な現象と思いこむほうが、まちがってる。

不安セミネールでラカンは言う、「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンはさらに強調する、「それは明らかだ ça saute aux yeux 」と。…

最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…

不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)


そもそも女性の享楽なんてのは、まともな男だったら(すくなくとも無意識的には)とっくのむかしからわかってんだから、還暦すぎの常識派−モンテーニュ派としては隠すことをオススメするよ。

女性の好意は、段々に、ゆっくりとふり撒くことをおすすめする。プラトンは、いかなる種類の愛においても、受け身に廻る者はあっさりと性急に降参してはならないと言っている。そんなに軽率に、すべてを投げ出して降参するのは、がつがつしていることのしるしで、これはあらゆる技巧をこらして隠さなければならない。女性が愛情をふり撒くのに、秩序と節度を守るならば、一段とうまくわれわれの欲望をだまし、自分らの欲望を隠すことができる。いつもわれわれの前から逃げるのがよい。捕まえてもらいたい女性でもそうするのがよい。スキュティア族のように、逃げることによってかえってわれわれを打ち負かすのである。(モンテーニュ『エセー』)