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2020年2月27日木曜日

阿呆の国と反デモクラシーのパララックス

日本ハ…(省略)スギルンダロウナ


差別主義者としてのプラトン  
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」(……)

「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」(……)

「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」

――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369

差別主義者としてのフロイト
私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない。…しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もないイリュージョンIllusionであることを見抜くことはできる。

私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲 Aggressionslust からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。

攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき zärtlichen und Liebesbeziehungen の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。

物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係 sexuellen Beziehungen の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit] にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)
注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 Ungerechtigkeiten を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

正義の社会において発生する最も熾烈な差別
デュピュイの偉大なる理論的ブレイクスルーは、「大他者」の出現と「聖なるもの the sacred,」の相を構成する「犠牲 the sacrifice」とを結びつけたことである。…犠牲を通して、大他者、つまり我々の行動を制限する超越論的審級が支えられている。

…(デュピュイの分析のもとでは)、主権国家の廃止と世界国家の設立は、暴力闘争を不可能にするどころか、むしろ「世界帝国」内部での新しい暴力形式を開く。「世界市民的理想は、永遠の平和を保証するどころか、むしろ限度なき暴力 la violence sans limitesにとってのお誂え向きの条件である。」(“Devons‐nous désirer la paix perpétuelle?” in Jean‐Pierre Dupuy, 2008)

根源的イデオロギーのカテゴリーとしての「犠牲の神秘」について最もラディカルでクリティカルな分析を提供したのは『聖なるものの刻印 La marque du sacré』(2008)のジャン=ピエール・デュピュイである。…

デュピュイの結論はこうである。正義の社会、自らを正義と見なす社会がルサンチマンから逃れると考えるのは、大きな間違いである。反対にまさにそのような社会こそ、劣等の地位を占める者たちが、自らの傷つけられた誇りの捌け口として、ルサンチマンの暴力的噴出を生み出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

反差別ドグマ主義者における最も大いなる悪
善への過剰なコミットメントはそれ自体、最も大いなる悪になりうる。このリアルな悪とはあらゆる種類の狂信的なドグマティズムである。特に至高善の名の下に行使されるドグマだ。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)


憐みという悪と残酷という善
あらゆる君主にとって、残酷よりは憐れみぶかいと評されることが望ましいことにちがいない。だが、こうした恩情も、やはりへたに用いることのないように心がけねばならない。たとえば、チューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。(マキャベリ『君主論』)
邪な心を抱いて正しい行為
そして正しい心を抱いて邪な行為

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

ーーシェイクスピア『終わりよければすべてよし』




阿呆の国を目指して
聾者の国 Deaf Nation の事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性 separateness であることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義 Oralism と呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009による)

このようにして、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義 Oralism の犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。 

この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に進むことを想像しさえすればよい。もし聾者の国 Deaf Nation があるなら、視覚偏重主義の圧制と闘うために、どうして盲者の国 Blind Nation が必要ないわけがあろう? 健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して、どうしてデブの国 Fat Nation が必要でないわけがあろう? アカデミックな圧力に残忍に抑圧された人たちにとって、どうして阿呆の国 Stupid Nation が必要でないわけがあろう?(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 )

あるいは反デモクラシーの生き残りを目指して
スポーツはそもそも反民主主義です。神様に愛されたものたちだけが、活躍できるという恩寵にみちた世界です。その活力を社会が吸い取れなかったら、社会が滅びる。文化もそうでしょう。社会がそうしたものを組み込めなくなっている危うい時に、われわれがスポーツを批評する意味はそこにある。(蓮實重彦bot)
同情は、おおまかに言って、淘汰の法則にほかならない発展の法則をさまたげる。それは、没落にひんしているものを保存し、生の勘当され、断罪された者どものために防戦し、同情が生のうちで手離さずにいるすべての種類の出来そこないを充満せしめることによって、生自身に陰鬱な疑わしい相貌をあたえる。人はあえて、同情を徳と名づけてきた(――あらゆる高貴な道徳においては、同情は弱さとみなされているのだがーー)。さらにすすんで、同情から徳そのものを、すべての徳の地盤と根源をでっちあげるにいたった、――もちろんこれは、このことこそたえず眼中にしておかなければならないことだが、ニヒリズム的な、生の否定を標榜した哲学の観点からのことであるにすぎない。(ニーチェ「反キリスト』1888年)

ニーチェが忘れている括弧外し
《「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(中略)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(中略)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。》(ニーチェ『力への意志』)

ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。

彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。
ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。

しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」(マルクス)という観点を無視したのである。(『トランスクリティーク』第一部第3章)
パララックス・ヴュー
ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない ― アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』)
以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性 Verstand の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性 äußeren Vernunft の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点 Gesichtspunkte anderer から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差 starke Parallaxen を生じはするが、それは光学的欺瞞 optischen Betrug を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)