「女主人の深い真夜中の声」で引用したニーチェの "lust" はなぜ享楽と訳すのですかとの問いがあるがーーこれは以前にも何度か問いあり、そのときザックリ返答している。もともと手元の手塚富雄訳では「悦楽」と訳されており、これは「享楽」のこと。ロラン・バルトの書の "jouissance" の訳語は「悦楽」とあったり「享楽」とあったりするーー。とはいえ「理論的には」、わたくしは以下の文章群を受け入れてそうしている。
リビドー Libido は飢え Lust である
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人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性理論三篇』1905年)
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性理論1910年注:Libidoはドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求Bedürfnissesの感覚と同時に満足Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。
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リビドー libido=飢え lust=享楽 jouissance
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我々は、フロイトがLustと呼んだものを享楽jouissanceと翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)
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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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こうしてニーチェのLustは「享楽=飢え」としうる。ニーチェ自身、飢えHungerという語を使っている。 |
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享楽の環の意志
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享楽 Lustが欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
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次の文はニーチェ・フロイト・ラカンの三幅対のために決定的である。
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「死の彼岸の生Leben über Tod」 としての「永遠の享楽 ewige Lust」
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何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸の生、転変の彼岸の生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。
このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・創造の永遠の享楽ewige Lust があるためには、生への意志Wille zum Leben がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能tiefste Instinkt des Lebensが、生の未来への、生の永遠性Ewigkeit des Lebensへの本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
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以下、もういくらか確認しておこう。
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リビドーは愛の欲動である
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リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。
……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
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愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)
私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
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ラカンの享楽回帰はニーチェの永遠回帰に限りなく近似している。
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享楽回帰は廃墟となった享楽を取り戻そうとする運動
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]
…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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この喪われた対象としての「享楽の対象=モノ」を取り戻そうとする「大他者の享楽」はエロスのことである。
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大他者の享楽はエロスである
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
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エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
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だがこの大他者の享楽=エロスは生きている存在には不可能である。なぜなら究極のエロスは死だから。 |
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大他者の享楽=究極のエロス=死
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大他者の享楽は不可能である。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりっこない。どんなにお互いの身体を絡ませても。
jouissance de l'Autre […] c'est impossible. […] mythe, enfin qu'évoque FREUD, qui est à savoir que l'Éros ça serait de faire Un […] c'est qu'en aucun cas deux corps ne peuvent en faire qu'Un. de si près qu'on le serre
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身体を密着することでせいぜいできることといえば、「わたしをぎゅっと抱き締めて serre-moi fort」と言うことぐらいだろう。しかしあまり強く抱き締めると、相手は最後にはへとへとになるだろう(死ンジマウダロウ)。
tout ce qu'on peut faire de mieux dans ces fameuses étreintes, c'est de dire « serre-moi fort » mais on ne serre pas si fort que l'autre finisse par en crever quand même !
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…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素、つまり死に属するものの意味に繋がるときだけである。
S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort. (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
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JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
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したがって人は「喪われた対象=享楽の対象」の廻りを永遠回帰運動する。
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「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
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以上、この永遠回帰運動=享楽回帰運動がニーチェの永遠回帰でなくて何だろう? なおここでの考え方の詳細やそれにかかわるニーチェの引用群は「永遠の生(不死の生)は個体の死のことである」を見よ。
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ちなみにラカンの喪われた対象を取り戻そうとする反復的享楽回帰運動とは、究極的にはフロイトの原ナルシシズム運動、さらに母胎回帰運動である。ジャック=アラン・ミレールは享楽=原ナルシシズムとしており、であるならその意味は母胎回帰運動となる。それは以下の引用を受け入れるならそうならざるをえない。
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私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
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われわれの享楽の彷徨い égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534、1973)
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例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profond(対象a)を象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
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自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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