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2020年4月2日木曜日

二元論はだめだと、誰かが言ったらみんな信じちゃった


「構造」は、はじめのうちは良き価値であったのに、あまりにもおおぜいの人びとの念頭で動きのない形式(「設計図」、「図式」、「モデル」)として考えられているということがあきらかになったとき、信用を失う羽目となった。が、幸いにも「構造化」ということばがそばにあった。そしてそれが、役わりを引き継ぎ、飛切の有力な価値を含意することとなったのだ。すなわち《つくり、おこなうこと》、倒錯的な(「何のあてもない」)費用支出、という価値である。(『彼自身によるロラン・バルト』)
構造主義者、いったい誰がいまだにそうであろうか。ところが、彼はそうなのだ、少なくとも次のような点では。均等にさわがしい場所は、彼には構造性をもたないものに見える。なぜなら、その場所ではもはや沈黙か発言を選ぶ自由がないからだ(バーで、隣り合って人に彼は何回言ったことがあるだろう、《話ができませんね、あんまり音がうるさくて》)。構造とは、私にすくなくとも二項を提供するものであり、そこで私は自分の望むとおりにその一方にマークをつけ、他方を捨て去ることができる。それゆえ構造とは、つまることろ自由の(控えめな)担保である。あの日の私の沈黙にどうやってひとつの意味を与えてやれるだろうか、《どのみち》私は話ができない以上。(『彼自身』)


それってあまりにも○○じゃないかな、内外やら貧富やらと二元論的語彙を散りばめたのち、すぐさま、二元論から抜けだして、根源的なもの、傷に向かう云々なんて。そもそも傷だって傷の刻印と身体的残滓があるという意味では二元論的だよ、➡︎「1と身体があるIl y a le Un et le corps 」。


たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを口にして書くことの不自由を曖昧にやり過ごすのではなく、「批評」について書きつらねられようとする言葉そのものを途方もなく希薄化し、遂には凡庸な匿名性へと埋没させてしまう力が何であるか、その機能するありさまを事件として生き(ること)。(蓮實重彦『表層批判宣言』)

ーーと引用すれば自分にも跳ね返ってくるけどさ、《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》(アドルノ『批判的モデル集II-見出し語』)

とはいえいくらなんでももうすこしは地に足をつけて考えてみることだな、いつまでも言葉の首飾り派やっていないで。ボクにはまったくついていけないってのはそういうところだよ、もはやイマサラだが。


構造は図式ではなく機能する形式
蓮實)それにも、こっちはやや責任がないわけではないけれども、構造主義が定着しなかったのは、そもそも構造というものが思考しがたいというのが、ひとつあるわけでしょう。構造は図式ではなく機能する形式だという点で、思考の対象たりがたい。それはやはり歴史的な体験の欠如からくるものでしょうね、たぶん。だから機能する構造の歴史を見てゆけば、構造主義になるはずだということがあると思うわけ。

ただし、もうひとつ機能する形式に対する感性の不在ね。三島由紀夫だってそうした形式に対しての感性はまったくないと思うわけ。

柄谷)ないね。

蓮實)形とかフォルムとか、そういうものに対する感性が彼には欠けている。彼が持っているのは、機能を停止したあとの形式のイメージにすぎない。だからせいぜい安保の対応をどうかするという程度のことでしょう。形式は生きられていないですよね。

その形式に僕は魅かれます。だからレヴィ・ストロースを読んで、いろんな不満があったって、最終的にはやっぱり偉い人だ。三島を読むより、文学的に高度な興奮を与えてくれますもの。しかし、なぜ批評がフォルムを括弧に括った形で平気でいられるんだろう。

いわば形式に眩惑されていないわけね、眩惑されれば恐ろしくて逃げるやつが出てくると思う。それはいいのです。フォルムなんて怖くてやってられないっていって。ところが怖くて逃げているわけじゃなくて、それはそういうものもあるだろうけれども、適当にそれなしでやっていけると高を括って無感覚に安住する形で避けているだけなんですね。(『闘争のエチカ』)
二元論はだめだと、誰かが言ったらみんな信じちゃった
柄谷)いま言われた形式のことでも、アリストテレスが形式と内容の区別をしたわけね。これはよく考えれば、すごく大きな問題なんですね。これをどう読むかでずっと批評がつづいてきたといってもよい。いろんな言い方をしても、この二元論は残っていますね。シニフィアンとシニフィエというような議論もその中にある。よく西欧の思考は二元論だから、それをこえなければならないというけれども、僕はそうは思わないんですね。「形式と内容」の区別が、形式主義を生みだすわけですからね。日本の思考においては、はじめから二元論が忌避される傾向がありますね。

蓮實)さっきの話に戻ると、二元論はだめだと、誰かが言ったらみんな信じちゃったわけですよ、結局は。なるほど形式と内容というのは、現実かどうかわからない。ただし概念としては機能するわけですよ、絶対に。それを機能させることが、形式というものに対する感性を養うことになるわけでしょう。

丸山圭三郎によると、アリストテレス的な単純な形式と内容は、シニフィアンとシニフィエではない。ソシュールには確かにもっと複雑な何かがある。しかし、それを先に言っちゃうと、概念として機能する二元論を消しちゃうわけですよ。一般には僕は二元論を回避する人間だと言われておりますけれどもね。そんなことないわけなんですよ。

僕も、どこかで形式と内容というのは、現実としては抽象でしかないという感じがしているわけです。ただし概念操作としては、明らかに機能しているし、僕もその機能に従って批評を書いたりするわけだし、ソシュールにしたってそうなんです。たぶん形式と内容といったものは、それ自体が大きなものとして括られて、ひとつの記号になっちゃうだろうということはわかっているけど、そのことを括弧に入れて仕事をせざるをえないわけですよ。こっちは二元論の罠に好んで落ちているわけで、べつに二元論を永遠に回避しようなんて思っているわけじゃない。二元論を回避するというのは、なんかのお終いであるわけですよ。そのなんかのお終いを自ら自分で演じて見せるほど、僕は図々しくもないし、またそれほど達観してもいないつもりです。

浅田君が二元論はいけないと言っているけれどもね。概念操作としては二元論というものは絶対必要なんですよ。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)

一と多
一は多であり、多は一であり、存在は非存在だなどという者を最初に嘲笑したのは、まさしくプラトンにほかならない。(ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』)ーー混同されてはならないものを「分割」するというこのギリシャ的な方法を進んで行使するベルクソンは、優れてプラトン的だといわねばなるまい。(蓮實重彦「ジル・ドゥルーズと「恩寵」」初出『批評空間』Ⅱ―10,1996)
弁証法的唯物論にとって、人は「多」に先立って「二」を考えなければならない。ーーそして鍵となる問いはこうだ:いかに我々は、「空虚 Void」に関して、この「二」を考えたらいいのか? 

原初の「空虚」のなかには、単純に「一」はいまだそこにないのか? あるいは「一」のこのまさに欠如がポジティブな事実なのか?  バディウは第一の選択肢、ラカンは第二の方だ。ラカン 派の観点からは、「多」があるのは、「一」が斜線を引かれている、分割され、それ自身になることを妨げられ、「一」になることが出来ないせいである。(ジジェク、Absolute Recoil 、2014)



以下、ラカンおたく用難解版(ここまで考えて二元論の彼岸を思考しているなら別だという意味でつけ加えるが、ま、10年ぐらいはかかるよ、真に消化するには。ボクはいまだ消化途上だな。2年ぐらい前は決定的な注釈だと捉えていた以下冒頭のジジェク文にたいしても今ではいくらかの疑念があるし)。


一とゼロ
想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、喪われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。

ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。

今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。

(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。

これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、喪われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での裂け目であり(その水準での裂け目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
ゼロあるいは無
現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, S23, 16 Mars 1976)
ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)
我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール, Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)
無、たぶん?  いや、ーーたぶん無でありながら、無ではないもの Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーーBarbara Cassin による超訳、《無ではなく、無以下のもの Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)》、見ての通り、ジジェク 2012の書名はここから来ている。


原抑圧=現実界のなかに女というものを置き残すこと
フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)
人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généraliséeを追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…
もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)

※一般化排除の穴=《女性のシニフィアンの排除の穴 trou de la forclusion de La femme》(Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012)

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。ここに現れているのは、(解剖学的な)性器の優位 Genitalprimat ではなく、(徴としての)ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana、2001)
女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”

この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)




女というものは存在しない。女たちはいる。
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。La femme n’existe pas ne signifie pas que le lieu de la femme n’existe pas mais que ce lieu demeure essentiellement vide. Que ce lieu reste vide n’empêche pas que l’on puisse y rencontrer quelque chose(J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)
ひとりの女はサントームである。 une femme est un sinthome (S23, 17 Février 1976)