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2020年5月17日日曜日

男性性誇示の女性化効果

以下、あくまで資料である。前半はよい。わたくしは男性性の誇示をする人たちが長年ひどく女性的に見えたが、その理由がラカン派的に示されている。だが後半に付記としてつけた文献とのあいだでいくらの齟齬が感じられ、わたくしにはまだわからないところがある。


女性の仮装 la mascarade féminine
女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性 féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958


男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)

女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年ーー女性誌インタビュー)





ジャック=アラン・ミレール 2007セミネール
私は自分を女性たちを惹きつけるとは決して信じていない[je me suis jamais cru irrésistible auprès des dames]…とはいえ、私はカワイイところがあるんじゃないかと信じている[quelque part je crois être adorable.]。

これが私の被愛妄想[mon érotomanie]の基本だ。少なくともラカンが愛の関係において被愛妄想と何かほかのものとのあいだの選択肢[choisir entre l'érotomanie et autre chose dans le rapport à l'amour]を提示した場で、私はむしろ被愛妄想の側にある[je me situais plutôt du côté érotomaniaque.]…私は次の事実に抵抗するのだ、まったく途方もない数の人々が私を憎んでいる[Il y a un nombre absolument incroyable de gens qui me haïssent]という事実に。これは私の確信を揺るがせない。基本的には、私は自分に言う。何を言ってるかって? こんな具合だ。彼らが私を嫌いなのは、私のことよく知らないだけさ(笑)、と[ils me connaissent pas bien ( rires)]。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, Cours n°4 – 5/12/2007)






ジャック=アラン・.ミレール 2000セミネール
そう、私は信じている。ラカンがセミネールXVII で語った「対象aの女性化効果 l'effet féminisant de l'objet petit a」、…これをエリック・ロランは強調しているが、この女性化効果は、愛の被愛妄想形式の別のヴァージョン[autre version de la forme érotomaniaque de l'amour]だと。染みとしての対象a [L'objet petit a comme tache]は、私の眼差しを魅了する。そして基本的には、ラカンは女性的ポジションを卓越して、眼差しの中心になること[être le centre du regard]として定義した。それはデュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』のロルのように。

このように基本的には、対象aのポジションを女性化のポジションと想定すこと[la position de l'objet petit a, c'est assumer la féminisation]は、(女性の仮装における)みせびらかし exhibition と言いうる。
そしてさらに、すべての男性性の誇示[virilités démonstratives]も女性化のポジションにあるとさえ言いうる。私は技巧を演じる。レザーキャップとレザージャケットをつけ(笑)、レザーパンツをはき、そして大きなバイクに乗る…こうすれば基本的にはよりいっそうの男性性を強調する徴[signes emphatiques de la virilité]となる。事実上、これは女性化効果[effet féminisant]を持っている。すなわち、「対象aの女性化効果によって強調された男性性のアイキャッチャー[l'attrape regard de la virilité emphatique, par l'effet féminisant de l'objet petit a]」は、基本的に仮装[mascarade]の特徴を示している。
だからこの点に関して一般化してわれわれは言いうる。基本的な問い、大他者の欲望に対してどんな解決法が見出されうるのか、と。大他者の欲望が現前するとき、その基本には、最も明瞭な主体的効果として不安がある。この欲望のなかにある私とは何?何が私を大他者の欲望にするの?どうして私を欲望するの?[que suis-je dans ce désir ? Que me fait le désir de l'Autre, que me fait-il ?]と。

そして基本的に、被愛妄想形式における愛[l'amour sous la forme érotomaniaque]は、最も優れた解決法である。つまり、私は大他者の欲望の原因である。とてもシンプルに私は大他者の欲望の原因だから、彼は私を愛する[C'est très simple je suis la cause du désir de l'Autre, il m'aime.]、と。

したがって、基本的に被愛妄想形式は、不安と愛のあいだにある欲望の軸[pivot du désir entre angoisse et amour]の役割を演ずる。結局、愛の解決法[solution amoureuse ]がたしかに最も優れている。それは最も巧く構成されれば、不安防御壁の審級[ordre du pare angoisse]となる。
…『ロル・V・シュタインの歓喜』における被愛妄想形式構造は、一見、ヒステリー構造に見える。だが実際は、まったく異なった何か、他のモノautre choseに導いてゆく。われわれは言いうる、結び目が再び結ばれる[le nœud se refait]とき、問題のモノ[la chose ]へのダイレクトなアクセスを持つのだ。つまりロルは、彼女の享楽のなかで泳ぐ[elle nage dans sa jouissance]。彼女はモノの獲得の禁止をする仕切りを横切る[elle a franchit la barrière qui interdit d'obtenir la chose.]。(J.-A. MILLER, LES US DU LAPS - Cours n°20  31/05/2000)


モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)








ミレール 文に「対象aの女性化効果によって強調された男性性のアイキャッチャー[l'attrape regard de la virilité emphatique, par l'effet féminisant de l'objet petit a]」は、基本的に仮装[mascarade]の特徴を示している、とあったが、野間界隈の人物だったひとりが次のように言っていたことを思い出した。


@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。





……………

◼️付記




J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999
「持つこと」の水準には、厳密にリアルなペニスがある。それは、パートナーの一方に属し、他方には属さないものである。われわれはそれをシンプルにプラスマイナスで書く。「ある」と「ない」である。au niveau de l'avoir, précisément du pénis réel […] Nous l'écrivons, […] en opposant simplement le plus et le moins, le il y a et le il n'y a pas.  
対象の項において、男性側では対象は、フェティッシュの形式[la forme du fétiche]を取る。フェティッシュは基本の対象であり、対象aである[objet de base, l'objet petit a]。…フェティッシュはもちろん対象aの特徴を強調するが、対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない。[Le fétiche, bien sûr, accentue le caractère de l'objet petit a. Ce n'est qu'une des versions de l'objet a]。

女性側の被愛妄想érotomanieはフェティッシュに比べ、より対象的はなくmoins objectal、愛を支える対象un objet support de l'amourであり、ラカンは穴Ⱥと徴した。
ラカンは繰り返し強調している、愛があるところには、去勢の条件があると。この理由で、愛の大他者は彼が持っているものを剥奪されなければならない。Lacan a souligné, de façon répétitive, que, pour qu'il y ait de l'amour, il y a une condition de castration. C'est pourquoi Lacan pouvait dire que, pour une femme, l'Autre de l'amour doit être privé de ce qu'il donne.  
欲望の原因 cause du désirの項において、剰余享楽と愛の対立opposition entre le plus-de-jouir et, de l'autre côté, l'amourがある。さらにこの愛を強調すれば「狂気の愛 amour fou」である。この意味は何か。アンドレ・ブルトンの書名であるが、この「狂気の」という形容詞は、本質として限度なき愛を示す[amour, par essence, est sans limite]。

ラカンの定義において、「愛はあなたが持っていないものを与える l'amour est donner ce qu'on n'a pas」である。愛は、持つことの完膚なきまでの廃棄[annulation complète de l'avoir]にある。…これが構造Ⅱにて示したものである。左側には有限[le limité]、右側には無限[l'illimité]がある。この無限は、持つことの彼岸としての愛の地位[statut de l'amour comme au-delà de l'avoir]から還元したものである。
享楽の様式 modes-de-jouir の項の左側に症状、右側に破壊[à gauche le symptôme et à droite le ravage]を記す。

破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。穴とは、「限度なき」という意味での非全体である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, le pas-tout au sens du sans-limite. 

他方、症状は常に有限の苦痛・局地化された苦痛である。le symptôme, c'est une souffrance toujours limitée, une souffrance localisée.  (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999、摘要訳)


先ほどのミレール 1999の図は一部の項を抜き出しだけあり、全体は次のもの。