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2020年6月29日月曜日

シニフィアンはトラウマの原因

「シニフィアンはトラウマの原因」としたが、厳密にはシニフィアンはトラウマ的反復強迫の原因ということである。

ジャック=アラン・ミレールの、おそらく一般には誤解をひどく招きやすい文がある。

真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢恐怖でも、性交の目撃でもない。これらすべてを幻想へ移行させることでもない。エディプスや去勢でもない。真のトラウマの核は言語システム[la langue]との関係にある。Que le véritable noyau traumatique n'est pas la séduction, la menace de castration, l'observation du coït, ni non plus la transformation du statut de tout cela en fantasme, ce n'est pas Œdipe et castration. Le véritable noyau traumatique est le rapport à la langue (J.-A.Miller, Joyce le symptôme, 1998)

去勢とあるが、去勢には大きく二種類ある。構成する去勢と構成された去勢である。上の文でミレールの言っている去勢は幻想のなかの去勢であり、構成された去勢である。他方、構成する去勢は、次のように定義されるリアルな去勢であり、すべての基盤である。

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

この去勢は現在ラカン派では「一般化去勢 la castration généralisée」と呼ばれ「一般化トラウマle traumatisme généralisé」と等置される。ことほどさように、現在の解釈からみたら、いささか不用意な文であるようにさえ見える。

通常は「まさか!」という反応を生む文である、ラカン派内でさえその反応があり、わたくしも長いあいだ放っておいた。

だが冒頭のミレール文の基盤は、ラカン自身による《シニフィアンは享楽の原因》にあるだろうことに最近気づいた。

シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?(ラカン、S20, December 19, 1972)

そもそも享楽とはトラウマ、かつトラウマの反復強迫のことである。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン, S23, 10 Février 1976)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
現実界は書かれることを止めない(反復強迫)。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)

たとえば「穴としての享楽」とラカンは言う。

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

この穴とはラカンには trou-matisme との表現があるように、トラウマのことである。

現実界は…穴=トラウマを為す。 le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

したがってミレールは次のように言う。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

享楽自体、穴をを為すものである。jouissance même qui fait trou(J.-A. Miller, Passion du nouveau, 2003)


次にミレールの《真のトラウマの核は言語システム[la langue]との関係にある》、ラカンの《シニフィアンは享楽の原因》について考えてみよう。

フロイトには語表象、事物表象、モノ表象という三種類の表象がある。これはそれぞれ象徴界的シニフィアン、想像界的シニフィアン、現実界的シニフィアンに相当する。



ーーモノ表象をフロイトは境界表象 Grenzvorstellungとも呼んだ。モノあるいはエスの境界シニフィアンである。現実界の境界シニフィアンと呼んでもよい。

フロイトのモノを私は現実界 と呼ぶ。La Chose freudienne. […]ce que j'appelle le Réel(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


この区分はとくに目新しくはなく、たとえば1870年代の20代のニーチェが既に似たようなことを言っている。

言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。(…)

人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)


話を戻せば、人間には大きく言って上に掲げた図表の3区分の表象がある。もちろんラカン的に最も肝腎なのはもちろん現実界的シニフィアンである。前期ラカンはこのシニフィアンを純粋シニフィアンと呼んだ。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純粋シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。純粋シニフィアンは言語のリアルな相 dimension of the Real-of-languageがある。(ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性 Subjectivity and Otherness』2007)
主体とシニフィアン自体との関係は、最も形式的な相[aspect le plus formel], 純粋シニフィアンの相[aspect de signifiant pur]にあり、われわれはそれを精神病の核に繋げなければならない。精神病は純粋シニフィアンのまわりに構成されている。(Lacan, S3, 31 Mai 1956)


純粋シニフィアンとは他のシニフィアンと繋がらないシニフィアンである。

シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne 。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)


「繋がる」とは「S1-S2」という形でラカン派では示され、「繋がらない」とは「S2なきS1」である。

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)


このフロイトの固着としてのサントームが本来の享楽である。

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


とはいえ、サントームの享楽としての現実界的シニフィアンの反復だけではなく、象徴界的シニフィアン、想像界的シニフィアンによっても人は反復を起こす。前者をファルス享楽、後者を想像的自我の享楽と呼ぶ(参照)。

たとえば一人称代名詞「私」という象徴界的シニフィアンがある。人はこの「私」という語を使うことによって身体的なものを喪う。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

したがって身体的なものの喪失によって反復を引き起こすという意味では、トラウマ的である(ここでのトラウマとは言語外の身体的なものの反復という意味)

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


人はシニフィアンを使うことによって常に去勢があり、トラウマ的反復があるのである。

ラカンは次のように言っている。

常に1と他、1と対象aがある[il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)](Lacan, S20, 16 Janvier 1973)

この「1」はシニフィアンのことであり、対象aは身体的残滓のことである。

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者(異者としての身体)は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


したがって「1と対象aがある」とは「1と身体がある」である。

1と身体がある[Il y a le Un et le corps. ](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse, 2013)


さて以上から、「1と身体がある」が享楽の原因であり、トラウマの原因であることが示せたであろうか。もちろんトラウマ的出来事自体はシニフィアンとは関係なしに起こる。だがトラウマ的反復強迫はシニフィアンに起因するということが。

………

もちろん、一般的なトラウマの反復とは、トラウマ的出来事への固着映像の反復強迫であり、典型的なのは次のような事例だろう。

私の子ども時代といえば、明治生まれはまだ若くて、元治だとか嘉永だとか万延生まれの人がおられました。この時代、日露戦争の勇士は戦争体験を語らないと言われていました。一般に明治人は寡黙であり、これは明治人の人徳であると思われてしました。けれども、今から考えるとそうではなくて、日露戦争は、最後は白兵線つまり銃剣で戦われたわけです。それはほとんど語りえないものであったのではないだろうかと思うのです。

その一つの傍証を挙げましょう。精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。

ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



さらに次の文で、中井久夫が「静止的視覚映像」と言っているのが、ラカンの現実界的シニフィアンの審級にほぼありーーイマーゴという意味では、想像的シニフィアンでもある。ラカンはこの静止画像の底にあるもの示すのにフロイトの《表象代理 Vorstellungsrepräsentanz》という表現を好んだが[参照]、これは《欲動の表象代理 Vorstellungs-Repräsentanz des Triebes》のことであるーー、「異物」と言っているのが、フロイトの Fremdkörperーーラカンはしばしば「異者 étranger」あるいは「異者としての身体 corps étranger」と呼ぶーーであり、この異物が固着による身体的残滓である。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


したがって、トラウマの核心は固着であり、その固着による身体的残滓(異物)の反復あるいはその残滓を取り戻そうとする不可能な運動である。

トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18.  Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着、 1916年)



上の文でフロイトは事故的トラウマへの固着を語っているが、幼児期の身体から湧き起こる欲動にかかわる構造的トラウマへの固着もある。中井久夫は《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》と断言しているが、事故的トラウマと構造的トラウマとはまさにこの意味である。

二歳半から三歳半にかけて成人言語の世界に入場する以前の幼児に起こる身体の出来事は、言語によって秩序化・減圧化されないという意味でトラウマ的である。その出来事の強度の多寡はあるが、そのうちのいくつかの徴は後の人生に大きな影響を残すトラウマ的刻印となり反復強迫を生む。主に母が乳幼児の身体を世話するときに生ずる徴である。母の言葉ーーララングと呼ばれ喃語の一種であるーーもそのうちの重要なひとつである。

前期フロイトはこの固着に相当するものを《我々の存在の核 Kern unseres Wesen》、後期フロイトは《欲動の根 Triebwurzel》とも呼んだが、これがラカンの本来の享楽としてのサントーム、人がみなもつ原症状としてのサントームの享楽である。

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



後期ラカンの女性の享楽自体ーーセミネール20「アンコール」までの女性の享楽ではなくその後の女性の享楽ーーは、このトラウマへの固着としてのサントームであり、生物学的女性にある享楽ではない。ラカンにおいて概念の転回があったのである(参照)。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)

したがって、たとえばラカンが次のように言うとき、「ひとりの女は固着による異者身体=身体的残滓である」という意味である。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


もし女性の享楽における女という言葉にどうしても拘るなら、最初の世話役としての母なる女の徴の享楽としてもよい。

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。(ラカン、S17、11 Février 1970)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


つまり男にもあり女にもある徴、母なる原誘惑者による身体の上への刻印の享楽である。この意味で「サントームは母の名」と呼ぶことができる。

Le sinthome est le nom de la Mère
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)



もっとも厳密には「母の名」というより、「サントームは母なる異者身体の名」である(参照)。フロイト観点では、原幼児期、子供は自己身体と母の身体の区別をしていない。だがすぐに母からの分離を悟る。この分離=去勢された身体が母なる異者身体である。さらに遡れば、出産外傷、つまり母胎の喪失が原去勢がある。これをフロイトラカン両者とも叙述している。フロイトは「去勢の原像」としての出産外傷、ラカンは「胎盤の喪失」あるいは事実上「羊膜」と捉えうる「ラメラの喪失」としての原対象aと。

もし生物学的女性の方において、女性の享楽つまりサントームの享楽が男性よりも多く顕現するなら、すべての女性の股の間にある子宮か、あるいは男性に比べてファルスの鎧、つまり言語による鎧が薄い所為なのが要因である。他にも種々の可能性を推測しているラカン派がいるがここでは割愛する。ここで言いたい大切なことは、女性の享楽とは生物学的女性固有の享楽では決してないことである。

女性の享楽=サントームとは、固着による症状である。

ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)



固着によって発生した異物(身体的残滓)は表象不可能である。だが人はその残滓を表象しようと何度も何度も繰り返し試みる。これが反復強迫=反復享楽である。






フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2011)

私は「1と享楽の結びつきconnexion du Un et de la jouissance」が分析経験の基盤であると考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


上図はラカンマテーム穴Ⱥと原穴埋めシニフィアンS(Ⱥ) ーートラウマの境界表象ーーを利用すれば次のようになる。






S(Ⱥ) とはサントームΣのことでもある。

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

Ⱥとは享楽の穴という意味であり、斜線を引かれた享楽マテームにて示されることもある。したがって次のようにも示せる。




この固着とその身体的残滓である異物が、トラウマの反復強迫メカニズムの核心である。

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…自我は、二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf において、原症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

人がみなもつ原症状としてのサントームとは、事実上、構造的外傷神経症であり、その意味でこのトラウマの反復強迫メカニズムにどう対応するかが現在のラカン派臨床の核とさえ言える。

固着とは原抑圧のことである。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

そして現在、主流臨床ラカン派では原抑圧の時代と呼ばれている。

後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)