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2020年12月26日土曜日

芥川と三島の「共通な出来事」


芥川と三島は、原幼児期に共通な出来事をもっている。


僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。・・・


僕は時々幻のように僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守っているように感じている。…


僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)

信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元来体の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も与へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだつた。彼はその為に生まれ落ちた時から牛乳を飲んで育つて来た。それは当時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。…


信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の秘密だつた。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だつた。(芥川龍之介「大導寺信輔の半生」1925年)


三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と 決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)




ーー二人とも「母の乳房」にかかわる不幸な出来事である。フロイトの表現なら、こよなき重要性をもった「心理学的な父」としての出来事。


幼児は成人の心理学的な父である。幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 das Kind sei psychologisch der Vater des Erwachsenen und die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


この出来事ーー身体の記憶ーーはどんな帰結をもたらしうるのか?(あくまで「場合によっては」と但し書きをつけておかねばならない、過去には現在に比べればそれほど珍しくない事例なのかもしれないから)。


死への傾き。それはラカンが「離乳 sevrage」を語ったときに位置付けられる。死と母の結びつき[la liaison de la mort et de la mère]である。死の幻想、死への呼びかけ、自殺への坂道[fantasme de mort, appel de la mort, pente au suicide] であるものすべてーーそれは、母の側に位置している。母のイマーゴ[l'imago de la mère]がこの理由を提供する。どういう意味か? 母は、原喪失・乳房の喪失の場を位置を占める[la mère préside à la perte primitive, celle du sein]。主体は、(後年の人生で)享楽の喪失 [perte de jouissance]が起こった時には常に、異なる強度にて、母なるイマーゴを喚起する。(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 14 mars 1984)



以下、フロイトからも引用しよう、芥川の遺書にある自殺の理由として記されている《少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。》を想起させるフロイトの記述ではあるが、あくまでこういった側面からも見ることが可能な「だけ」だという程度に読んでいただくことを希望する。


小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)


愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]…愛の喪失は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。


あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアルなものかを[welche reale Gefahrsituation durch diese Angst angezeigt ]。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児のおそらく最も欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。(フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


不安は一方でトラウマの予感であり、他方でトラウマの緩和された形での反復である。Die Angst ist also einerseits Erwartung des Traumas, anderseits eine gemilderte Wiederholung desselben.(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。


疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


原ナルシシズム的リビドー とは、リアルな欲動であり、ラカンの享楽自体である。


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)



……………



芥川は母方の伯母、三島は祖母に溺愛されていた。だがふたりとも、幼児期に母の愛を得なかったという、少なくとも「記憶」をもっている。


◼️芥川自身の筆による年譜より


明治二十五年三月一日、東京市京橋區入船町に生まる。新原敏三の長男なり。

辰年辰月辰日辰刻の出生なるを以て龍之介と命名す。生後母の病の爲、又母方に子無かりし爲當時本所區小泉町十五番地の芥川家に入る。養父道章は母の實兄なり。 

三十一年本所區元町江東小學校に入學。成績善し。 

三十五年實母を失ふ。(現代小説全集の芥川龍之介年譜、大正十四年四月新潮社發行)


芥川は、母親が晩年しよんぼり二階に一人で暮してゐて、人が紙を渡しさへすれば、それにお稻荷樣ばかり畫いてたと言ひ、芥川も恐るおそる二階に首をだしてお稻荷樣を畫いて貰つたことがあると言つてゐたが、僕は晩年人が紙を渡しさへすれば河童を畫いてゐたその芥川の心中を思ふとひとりでに涙がわいてくる。(小穴隆一「二つの繪 芥川龍之介の囘想」1956(昭和31)年)

「お召しでございますか」

聰子はうなづいて、身のまわりに亂れた帶のはうを目で指し示した。蓼科は、襖を閉めると、清顯のはうへは目もくれずに、無言で疊をゐざつて来て、聰子の着衣と帶を締めるのを手つだつた。それから部屋の一隅の姫鏡臺を持つてきて、聰子の髪を直した。この間、清顯は所在なさに死ぬやうな思ひがしてゐた。部屋にはすでにあかりが點ぜられ、女二人の儀式のやうなその永い時間に、彼はすでに無用の人になつてゐた。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻)



…………


最後にこう引用しておこう。


子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去 に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。

でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』2009年) 




この際、深沢七郎も引用しておくか・・・


要するに自殺というのは自然淘汰だと思うんです。昆虫とか動物には、自殺はないでしょう。人間にあるというのは、人間だけにある自然淘汰ですよ。自殺は、誰でもそうです。ただ三島さんを自然淘汰に追い込んだのは、武ではなくて文で、現代の文学の世界が彼を自然淘汰したのだとおもいますが、つまり、早いはなしが日本の文壇が彼を自然淘汰したのだと思います。彼の作品なんてまったく、少年文学で私はにせものだと思います。それを三島さんは才能があるから気がついたのですねえ。それで、全然別の道で自殺を選んだのです。文から追い出されたのです。(深沢七郎『滅亡対談』ーー「ギター・軽演劇・文学・自殺」(古山高麗雄))


いやァ・・・、なんとか抵抗できるのはこれくらいかなーー《ボオドレエルは白痴になつた後、彼の人生観をたつた一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼した為に胃袋の一語を忘れたことである。》(芥川龍之介「河童」1927(昭和2)年)



われわれが反省しなければならないのは、われわれの思想が、それほどまでに確固として存在しているか、どうかだ。それを深沢七郎から反省させられる。こつちは思想はあるけど、存在していない。向うは思想はないが、存在している。それでオブジェだというわけだ。(三島由紀夫「新人小説論」「中央公論」昭和三一年一二月号)

しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる。(三島由紀夫「小説とは何か」1970年)



いやあ・・・



私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだと思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。〔・・・〕


あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。〔・・・〕


自殺する作家は、洋の東西を問わず、ふしぎと藝術家意識を濃厚に持つた作家に多いやうである。〔・・・〕芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年)

「大体僕は自殺する人間の衰えや弱さがきらいだ。でも一つだけ許せる種類の自殺がある。それは自己正当化の自殺だよ」(三島由紀夫『天人五衰』1970年)