このブログを検索

2020年1月18日土曜日

基本版;性欲動

ふと気づいたが、次のようなことがたぶんまったくわかっていないんだろうな。

20世記後半のインテリフェミたちのほとんどはフロイトを読まないまま批判している、ってのか拒絶反応を示しているわけだが、その言説にさらに薄っぺらに囚われて愛とかセックスとか言っている現在のおねえさんたちがどん底系に見えてしまって絶句するほかないんだけど。

ま、仕方がないけど。あのフーコー でさえフロイトにおける性的と性器的の相違が死の年までわかっていなかったんだから。

でも精神分析ってのは性愛の問題を抱える何万、何十万の患者を相手に生まれたのだから、フロイトをはずして性も愛も女もないよ。

フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」1980年)


享楽=リビドー =愛の欲動=性欲動
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
『性欲論』1910年注:ドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求Bedürfnisses(乞う)の感覚と同時に満足Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
性的と性器的の区別
a) 性的生 Sexualleben は、思春期からのみ始まるのではなく、出生後ただちに性的生の明瞭な顕れがある。

b) 「性的sexuell」概念と「性器的genital」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器 Genitalien とは全く関係がない多くの活動を含んでいる。

c) 性的生Sexuallebenは、身体諸領域 Körperzonen からの「快の獲得Lustgewinnung」機能によって構成されている。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




ま、いかに連中がどん底系でも、男は究極的には「はい、そうですか」と言わざるをえないところがあるんだけど。ほとんどの女には母との同一化があるんだから。ーー《女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.》(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)




どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。

この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。(Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)






2020年1月17日金曜日

文学オタクから逃れるために

何度も示していることだが、柄谷はこう言った。

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



・カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。

・彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』)



そして、「愛-享楽-欲望」にて次のように置いてみた。







ラカンのボロメオの環にはいくつかのヴァリエーションがあるが、最も基本的な読み方は次の通り。

ボロメオの環において、想像界の環は現実界の環を覆っている。象徴界の環は想像界の環を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環に覆われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST? 、1999)

ラカンのボロメオの環に「厳密に」依拠することをやめ、柄谷のようにトポロジー的に利用することにすれば、ヴァリエーションはいくらでも可能だ。大切なことはひとつの環にのみ囚われないことだ。

たとえばこう置けるかもしれない。





--《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

従来からの思考は、「精神+心」に対する「身体」であり、基本的にはそれでいい。


自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年)
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる智 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)
無意識の主体は身体を通して、身体に思考を導入することによって始めて魂に触れる。En fait le sujet de l'inconscient ne touche à l'âme que par le corps, d'y introduire la pensée (ラカン、Télévision, AE512, Noël 1973)



前期ラカンの特徴は、人びとが身体だと思っているものは、言語によって構成された心的なもの、つまり「イマジネールな身体」にすぎないというものだ。それとは別に後期ラカンは「リアルな身体」を示した(参照:「イマジネールな身体」と「リアルな身体」)。


このリアルな身体は、ニーチェの力への意志にかかわる。


力への意志 Willens zur Macht 
これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…

心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
エスの力能 Macht des Es
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…

(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。

… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
享楽という死の欲動(マゾヒズム)
私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。彼(フロイト)はこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel.   […]Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


この欲動(死の欲動)とは、より厳密にいえば、想像界と現実界の重なり目にかかわる(参照)。フロイトの「欲動の固着・リビドーの固着」、ラカン派における「享楽の固着」に。

この重なり目のポジションにあるのは、また超自我でもある。それも「愛-享楽-欲望」の末尾に示した。


ここで誤解を招くことを恐れず、敢えてこう示してみよう。





ーー芸術をリアルとイマジネールの境界においたが、もちろん三文芸術はイマジネールに終始する。



JȺ とは「穴の享楽jouissance du trou」である。

現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。

…壺作り職人potierは、彼の手で空虚の周りに壺を創造する crée le vase autour de ce vide avec sa main (ラカン、S7、27 Janvier 1960)
壺は穴を創造するものである。その内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼岸」を創り出し暗示する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼岸」をほとんど触知しうるものにする。美は何か(別のもの)を隠蔽していると想定される表面の効果である。(ジュパンチッチ1999、 Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan, 1999)

このジュパンチッチの注釈は(とてもすぐれたものでありながら)前期ラカンと後期ラカンのふたつの現実界(ふたつの穴 )をめぐっていささか微妙なところがある(参照)。






だがここでは敢えてその微妙な(誤謬を生み出したがちな)点には触れず、ミレール を引用しておくだけにしよう。

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)



ここでニーチェをつけくわえてもよい。

夜と音楽。--恐怖の器官 Organ der Furcht としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術という音楽の性格がある。(ニーチェ『曙光』250番、1881年)

敢えてコメントするまでもないだろうが、穴の形式としての真の音楽を言っている。


そしてこう言っておこう、三文文学あるいは文学オタクは、イマジネール(仮象)内部に留まっている。現実界と想像界の重なり目にはとどかない。

偉大な詩人や文学者のみがそこに至ると。

たとえばリルケである。初期に新聞に書きまくっていた悪達者の詩人リルケではなく、後期リルケである。



リルケ、ドゥイノエレギー、第三歌より
愛するものを歌うのはよい。しかし、あの底ふかくかくれ棲む罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別なことだ。恋する乙女が遥かから見わけるいとしいもの、かの若者みずからは、その悦楽の王(享楽の王)について何を知ろう。…
EINES ist, die Geliebte zu singen. Ein 
anderes, wehe, jenen verborgenen schuldigen Fluß-Gott des Bluts. Den sie von weitem erkennt, ihren Jüngling, was weiß er selbst von dem Herren der Lust, 

聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。星々よ、いとしい恋人への彼の乞いは、あなたから来るのではなかったか。…
Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt. Ihr Sterne, stammt nicht von euch des Liebenden Lust zu dem Antlitz seiner Geliebten
朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、あなたの出現がかれをかほどまでに激動さしたと、あなたはほんとうに信ずるのか。まことにあなたによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからの恐怖がこの感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。彼を揺すぶれ、目覚めさせよ…しかしあなたは、彼を暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできない。
Meinst du wirklich, ihn hätte dein leichter Auftritt also erschüttert, du, die wandelt wie Frühwind? Zwar du erschrakst ihm das Herz; doch ältere Schrecken stürzten in ihn bei dem berührenden Anstoß. Ruf ihn . . .  du rufst ihn nicht ganz aus dunkelem Umgang.




蛇足的にいっておこう、表題の「文学オタクから逃れるために」とは、ここでの記述からわかるだろうように、哲学オタク、科学オタク、精神分析オタク等を代入しうる。

とはいえ柄谷の別のトポロジー図に依拠すれば、日本では文学オタク、心のオタク、共同体オタクが跳梁跋扈しており、批判の対象はまずこの仮象オタクとしたい。









2020年1月16日木曜日

あの少女に覚える羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚

前々回の末尾に引用した中井久夫の文に《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》とあって、とっても好きな表現で今までにも何度か引用しているのだけれど、人はあの思春期ーーいやそれだけでなく幼年期ーーの切ない感覚を忘れるものなのかね、《ただ、少数の人間だけが幼い時の夕焼けの長さを、少年少女の、毎日が新しい断面を見せて訪れた息つく暇のない日々を記憶に留めたまま大人になる》とあるけどさ。

…こういうことをすべて忘れて、人は大人になる。なりふりかまわずといってもよいほどだ。ただ、少数の人間だけが幼い時の夕焼けの長さを、少年少女の、毎日が新しい断面を見せて訪れた息つく暇のない日々を記憶に留めたまま大人になる。村瀬嘉代子さんは間違いなくそういう人であって、そういう人として「子どもと大人の架け橋」を心がけておられるのだ。より正確には、運命的に「架け橋」そのものたらざるを得ない刻印を帯びた人である。

あるいは村瀬さんは私にも同じ刻印を認めておられるのかもしれない。その当否はともかく、何年に一度かお会いするだけであるのに、私も村瀬さんに独特の近しさを感じている。それは、精神療法の道における同行の士であると同時に、朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚である。(中井久夫「こころと科学」第六六号、 1996初出『精神科医がものを書くとき  Ⅱ』広栄社 所収)


蚊居肢散人は還暦過ぎても、まだあの頃の感覚が途轍もない強度で唐突に襲ってきて、記憶の穴のなかに吸い込まれてしまうような感覚をくり返してもつのだが。だいたいあんなのの忘却してるヤツってのは象皮病みたいなもんだよ、

一般的な外傷神経症を刺激保護膜Reizschutzesの甚だしい突破侵入の結果と見なしてよいだろう。(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)

ーー刺激保護の皮膚がブ厚いヤツってのはウラヤマシイね


実は、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》という文節自体が今回、時間感覚を引き裂くすきま風のように作用して痛切な感覚をもたらし、なんだか身動きできないような感じになってしまい、昨日の夕食時に妻から「目が外に向いていない」と言われたんだけどさ、ま、毎度のことさ。

妻が何度も襲われるのは5歳のときの記憶らしいけど、ボクは少なくとも20映像ぐらいはあるな。彼女には、きみと最初に出会ったときのモーヴ色のアオザイでシクロにふんぞりかえっているイマージュはどうしたって忘れられないな、というと機嫌がなおるけどさ。

今回は、ーーああ、ああ、遠ざかっていく少女のイマージュ。





侯孝賢の作品には背を向けて向こうに歩んでいったり、走り去っていったりする女の映像がふんだんにあるのだけど、彼の作品を他人とは一緒に観れないね、むかし映画館で女と一緒に観たことが一度だけあるのだけど、ひどくオコッチマッタよ。

彼の作品は音楽をもうちょっとなんとかしてくれ、って思うときがあるのだけど、それ以外は「真の親友」の映像作家だな。

きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。


たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。

むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト「見出された時」)




レミニサンス
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
この書(スワン家のほうへ)は極めてリアルな書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (プルースト書簡 Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)








2020年1月15日水曜日

ラカン後のメタ心理学


中井久夫は1982年に次のように記した。

フロイトの影響はなお今日も測深しがたい。一九三九年の彼の死に際してイギリスのある詩人は「フロイトよ、おんみはわれわれの世紀そのものであった」と謳ったが、それすらなお狭きに失するかもしれない。本稿においてはフロイトを全面的にとりあげていないが、それは、私見によれば、フロイトはいまだ歴史に属していないからであり、精神医学背景史とはなかんずく時間的背景を含意するからである。

フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した ”タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)


はっきり言って2020年になっても、「フロイトはいまだ歴史に属していない」。ラカンでさえ「鋭利ながら細身にすぎる剣をもって」フロイトと格闘したに過ぎないーー、とまで言うつもりはないが、知れば知るほどそう言ってみたくなるときがある。

ここでリチャード・ブースビーの『哲学者としてのフロイト、ラカン後のメタ心理学』(2001年)から引こう。

『心理学草稿 ENTWURF EINER PSYCHOLOGIE』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当て」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残滓がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

リチャード・ブースビーRICHARD BOOTHBYは、日本ではほとんど知られていないだろうが、上の文はフロイトの基本を理解する上で決定的記述のひとつである。

「回収不能の残滓」とあるが、「リビドー固着の残滓」のことである。ラカンがフロイトの遺書とした論文から引こう。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓 が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


わたくしは「心優しき善人」のうちにある「原始時代のドラゴン」を呼び起こしてやろうとする悪い癖がある。彼らの猫かぶりぶりにどうしても我慢ができなくなるのであるが、これは必ず成功する。

通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…

完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen (ニーチェ『この人を見よ』)

だがこの悪癖はもう止めなくてはならない。つい最近もそれをやってしまって今は忸怩たる思いである。

話を戻そう。『終りある分析と終りなき分析』における固着(リビドー固着)とは原抑圧のことでもある。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向があることである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)


フロイトは1915年に初めて原抑圧概念を提出した。


われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

とはいえ、これ以前に「抑圧」と表現される概念は、原抑圧として捉えうるものも多い。

たとえばフリース書簡の次の三文の「抑圧」は原抑圧である。


本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)


最後の「翻訳の失敗」という表現における「翻訳」は、最晩年にも次のような形で現れる。


自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)


「翻訳の失敗」とは、冒頭近くに引用したブースビーが示唆しているように「拘束の失敗」のことでもある。


(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

この拘束の失敗により「無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es」が起こる(『制止、症状、不安』第10章、1926年)。

外傷神経症と近似した反復強迫である。したがってフロイトは次のようにも言う。


幼児期の「病因的トラウマ ätiologische Traumen」は…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である。…

これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。それは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

現代ラカン派が「享楽の固着」と表現するものは、この「トラウマへの固着」のことである。

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
享楽の固着とそのトラウマ的作用がある fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)

原抑圧概念に戻ろう。

後期ラカンに頻出する穴概念は、原抑圧の穴であり、フロイト表現なら「引力」のことである。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
フロイトは、原抑圧 Urverdrängung を他のすべての抑圧が可能となる引力の核 (le point d'Anziehung, le point d'attrait)とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、 Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


そしてこの穴とはトラウマのことであり、現実界である。

現実界は穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel[…] fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


トラウマゆえに反復強迫する。ーー《フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2011 )。

ラカンの「書かれることを止めない」という表現は、無意識のエスの反復強迫と同じ意味である。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel(ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)


現代ラカン派においては原抑圧よりも固着概念を好んで使用する傾向がある。


ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

わたくしはフロイトラカン注釈において現在、原抑圧もしくは固着に大きく触れないままの解説書は決定的なものが欠けていると考えているが、日本ではその傾向がいまだ強いのではないだろうか。これは彼らの書を読んでいない身で憶測で言っているに過ぎないが、ネット上で流通している断片を眺めるかぎりそう邪推してしまう。

最後にこう付け加えておこう。ラカンがフロイトを超えて進んだ点があるとしたらサントームとの同一化である、と。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)


他方、フロイトは次のように言いつつ死んでいった。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie  である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)




女の身体


性的な身体を女性は見られることによって獲得していきます。女性にとって自己身体意識、あるいは自己身体イメージの獲得は、思春期以降、男性からかくあるべき身体として自分に付与される視線によって、その視線を内面化することによって獲得されます。(上野千鶴子 『性愛論』1991)

上野千鶴子さんでさえーー敢えて「さえ」というけどーーこう言っているんだから、古典的なジョン・リヴィエールJoan Rivièreの「仮装としての女性性Womanliness as a Masquerade」(1929年)を外して「女の身体」なんて語っても核心を外すだけだと思うよ。別にリヴィエールにそのまま依拠してなくても多くの人は似たようなことを言ってきた。

女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)

何度もくりかえし引用したけれど、再掲しとくよ。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性 féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)
男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)
男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)




何年かまえ読んで感心したポルトガル在住のスガトモコさんの文ーー彼女は占術家として28年のキャリアがあるそうだーーの一部も貼り付けておくよ。


娼婦性について  菅知子
「おしろいをぬるやうになってから 女は からだを売って生きるやうになった」

金子光晴の、「どぶ」という詩の冒頭である。

体を商品にして生きているのは、何も娼婦に限ったことではない。女は、女の肉体をもって生まれたことそれ自体が、すでにひとつの業なのである。それを宝として守り、ときに力づくで奪われ、しばしば自ら武器として利用し、はたまた重い足かせとして引きずりながら、生涯肉体とともに生きていかなければならない。
周りの大人の男の自分に対する視線が、子供を見る目から女を見る目に変わったときのことを、私は今でも覚えている。どこか色めき、にやつき、それでいてこわばるような、本能と自意識の混在したような目つき。その視線に応じて女は、自分にとってより有利な反応を引き出せる振る舞いや媚態を、無意識に体得してゆくのである。

男性という客体を前に、自らの肉体に価値があることを自覚せざるをえない環境にあって、それをまったく利用せずに生きていく女は、ごくまれであろう。愛されるために容姿を美しく飾り立て、欲望を刺激して男の気持ちを操ろうとすることは、無意識裡にであれ、あらゆる女がやっていることだ。

そのような意味で、娼婦性というのは、ひとつのアーキタイプとしてすべての女のなかに潜んでいる。しかしながらその一面を否定し、愛だのプライドだのカケヒキだのをごちゃごちゃに混ぜ合わせてしまうことで、女として生きる苦悩は往々にしていっそう複雑なものとなってしまう。





「科学者」中井久夫の徹底的な分類も再掲しておこう。



◼️中井久夫「身体の多重性」(『徴候・記憶・外傷』所収)
A 心身一体的身体
(1)成長するものとしての身体
(2)住まうものとしての身体
(3)人に示すものとしての身体
(4)直接眺められた身体(クレー的身体)
(5)鏡像身体(左右逆、短足など)
B 図式〔シューマ〕的身体
(6)解剖学的身体(地図としての身体)
(7)生理学的身体(論理的身体)
(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)
C トポロジカルな身体
(9)内外の境界としての身体(「袋としての身体」)
(10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体
(11)兆候空間的身体
(12)他者のまなざしによる兆候空間的身体
D デカルト的・ボーア的身体
(13)主体の延長としての身体
(14)客体の延長としての身体
E 社会的身体
(15)奴隷的道具としての身体
(16)慣習の受肉体としての身体(マルセル・モース)
(17)スキルの実現に奉仕する身体
(18)「車幅感覚」的身体(ホールのプロキセミックス、安永のファントム空間)
(19)表現する身体(舞踏、身体言語)
(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、化粧、タトーなど)
(21)歴史としての身体(記憶の索引としての身体)
(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)
(23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻する、などなど)
F 生命感覚的身体
(24)エロス的に即融する身体(プロトペイシックな身体)
(25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)
(26)嗅覚・味覚・運動感覚・内臓感覚・平行感覚的身体
(27)生命感覚の湧き口としての身体(その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫)
(28)死の予兆としての身体(老いゆく身体――自由度減少を自覚する身体)
(29)暴力としての身体(暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけ統一される。ひとつの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時にはその集団としてのまとまりが生まれる)





異なった観点からのとても美しい文も。

また思春期。すべてが流砂の中にあるような身体の変化。それは時間感覚の長短ではない。それは、奇妙な言い方だが「永遠を越える」変化である。質の変化は量の変化を越えるからだ。私は長い間、少女たちがいつも同じ、眼の思い切り大きくつぶらな、中原淳一ふうの少女の顔を描き続けるのをいぶかってきた。おそらく、少年よりも短期間に大幅に眼に見えて変わる少女の身体像に対して対抗するには思い切りステロタイプな少女像しかないのだ。まさに「乙女の姿しばしとどめん」である。そういえば多くの少女像が斜め左を、つまり多少過去をみつめて、一雫の涙が今にもこぼれんばかりである。

しかし、少年の思春期は身体表現を持たないことによる独特の辛さがある。少年期の訪れとともに泣けなくなるのはなぜだろう。一部の少年に、急速に伸びゆく体験と知性との二つの間の独特な比によって数学と詩とに向って不思議な開けが起こるのも、泣けなくなるからではないだろうか。自殺する中学生たちは果たして泣けていたのだろうか。いっしょに泣いてくれる親友がいたら彼らは死ぬだろうか。親友がありえないように孤立させられていたら、せめてそのそばで泣けるような大人がいてくれればーー。

こういうことをすべて忘れて、人は大人になる。なりふりかまわずといってもよいほどだ。ただ、少数の人間だけが幼い時の夕焼けの長さを、少年少女の、毎日が新しい断面を見せて訪れた息つく暇のない日々を記憶に留めたまま大人になる。村瀬嘉代子さんは間違いなくそういう人であって、そういう人として「子どもと大人の架け橋」を心がけておられるのだ。より正確には、運命的に「架け橋」そのものたらざるを得ない刻印を帯びた人である。

あるいは村瀬さんは私にも同じ刻印を認めておられるのかもしれない。その当否はともかく、何年に一度かお会いするだけであるのに、私も村瀬さんに独特の近しさを感じている。それは、精神療法の道における同行の士であると同時に、朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚である。

この本の中に村瀬さんの症例への私のコメントが一つ掲載されているが、それを書いた時の感覚がそのようなものであったことを昨日のように思い出す。

そのような文ならば書けるだろう。しかし、書評とは。私は三ヶ月、道を歩く時も書評のための言葉を求めて頭の中をさまよっていた。私の考えはいつもこのような文に戻って行った。一言のキャッチフレーズによって知られ、或いはそれによって要約される人もあるが、村瀬さんはそういう人ではない。村瀬さんの心理療法にはそういう一語はない。学寮の若き日々を共にしたモートン・ブラウンが神谷美恵子さんの追悼に捧げた言葉を借りれば、村瀬さんは「行為」である。そして行為の軌跡として村瀬さんの著書はある。それは一つの「山脈」であって、年齢とともに山容は深みを帯びるのであるが、妻となり母となった経験を重ねつつも、その中で「むいたばかりの果物のような少女」も決して磨耗していない。村瀬さんが患者を前にして覚えるおそれとつつしみとはその証しであり、それを伝えることがこの本に著者が託した大切なメッセージではなかろうかと私は思う。(中井久夫「こころと科学」第六六号、 1996初出『精神科医がものを書くとき  Ⅱ』広栄社 所収)