愛はあのイマージュ、自己イマージュである。 l'amour ; soit de cette image, image de soi (ラカン、デュラスへのオマージュ, AE193, 1965)
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愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。……それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
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想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)
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つまりこう図示できる。
以前にも記したが、このボロメオの環のそれぞれの項は「厳密には」ラカンが提示している内実ではない。本来は三つの環の重なり目の意味合いを示しつつ記すべきだがここでは厳密さを期さず、おおよそこのように示すことができるということに過ぎない。別の言い方をすれば、愛-享楽-欲望の最も基本的関わりを示すためにーージャック=アラン・ミレールの観点に依拠しつつ、ーーボロメオの環を利用したということである。
こういった図は誤解を招きやすいので、ラカン派でも「直接的には」示す人はいない。その意味で、この図をダイレクトに信用しないようにお願いしておく。
さらにここで最低限の注意として、享楽自体、フロイトのリビドー = 愛の欲動 Liebestriebe (エロスエネルギー)であることを強調しておこう。そして「愛の欲動は死の欲動である」。
享楽の箇所はモノ、欲望の箇所は、法あるいは言語(言語の法の大他者)とも記せる。
三種類の他者
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他者をめぐる話題は、他者の想像的〔イマジナリー〕、象徴的〔シンボリック〕、現実界的〔リアル〕側面を目に見えるようにする一種のスペクトル的分析の対象となるはずだ。そうした分析はおそらく、これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例となるだろう。
第一に、想像的他者が存在するーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちである。
次に、象徴的大他者が存在するーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体である。
最後に、現実界としての大他者、不可能なモノ、非人間的パートナー、象徴的大他者に媒介された対称的な対話など不可能な大他者が存在する。
そして、これらの三つの次元がいかにして繋ぎ留められているかを理解することは決定的に重要である。モノしての隣人は次のようなことを意味している。私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的他者性、飼いならすことのできない怪物的モノの計り知れない深淵が潜んでいるということだ。(ジジェク「メランコリーと行為」)
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諸規則の非人称的集合→ 法、言語
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欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)
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象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
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モノ=享楽
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フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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これについては、ジジェク 曰くの「象徴的大他者ーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体」を上にあるように「言語の法」という表現に簡潔化して、そのまま次のように図示しうる(「モノ」は上にミレール がいっているように、事実上、享楽である)。
ジジェクが言ってように「私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的他者性、飼いならすことのできない怪物的モノの計り知れない深淵が潜んでいる」ことがとても重要である。ベケットはこのことをよく知っていた。➡︎ 「ベケットとあなたを貪り喰う空虚」。たとえば愛のイマジネールに耽ってばかりいる人物はいつか手痛い目に遭遇するだろう。人間関係の底には、常に根源的他者性が潜んでいることを十全に認知しなければならない。
言語の法の緑の環は鏡像的他者の赤い環に覆い被さっているが、これはイマジネールな相は言語に支配されているという意味でもある。多くの人はこの「象徴界+想像界」でのみ思考をしがちで、モノとしての大他者を失念しがちだが、他者を思考するとき(繰り返せば)リアルな根源的他者性を決して忘れてはならない。おわかりだろうか。
この根源的他者性をフロイト的に穏やかな表現をすれば、次のような意味でもある。
精神分析のエビデンスが示しているのは、ある期間持続して二人の人間のあいだにむすばれる親密な感情関係ーー結婚、友情、親子関係ーーのほとんどすべては、拒絶し敵対する感情のしこりを含んでいる。それが気づかれないのは、ただ抑圧されているからである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)
「象徴界+想像界」にのみ囚われることは、柄谷=デカルトの言い方なら、「共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけ」とすることができるかもしれない。
柄谷は後年『トランスクリティーク』にて、ボロメオの環の「想像界/象徴界/現実界」を援用しつつ(かつカントに依拠しつつ)、「仮象/形式(言語)/物自体」としている。また別に「ネーション/国家/資本」ともしている。そして後者の「ネーション」に「共同体」を代入しうる。
誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
ちなみにフロイト用語をボロメオの環のマテーム等に代入すれば、次のようになるとわたくしは考えている。
ーー色を塗り込んであるのはとりたてて意味はないが、重なり目の関係を鮮明化するためである。
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03 Février 1960)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
参考のためにこうも付け加えておこう。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名(=自我理想)の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
※理想自我については、「理想自我と自我理想と超自我」文献を参照されたし。
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※付記
ひとつ記すのを忘れたが、ジジェク のいう「モノとしての隣人」は次の意味である。
フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。
隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)
この隣人と相同的定義はリルケにも現れる。
目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間たちがどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳のなかで育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳のなかへまで匐い入り、脳髄を食い荒らしながら成長する。
それは隣人である。
僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。階上の隣人、階下の隣人、右隣りの隣人、左隣りの隣人、あるいは、この種類の隣人を同時に持ったこともある。僕は隣人の物語が書けそうである。大著述になるだろう。、むろんそれは僕が隣人に悩まされた神経衰弱の物語になるだろう。隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。(リルケ『マルテの手記』)