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2021年1月7日木曜日

ケチをつけるようで申しわけありませんが


人はそれぞれ自分自身のうちに、彼が見、そして愛したもののすべでから構成された一つの世界をもっている。彼は絶えずその世界に帰って行く。彼が異質の世界にさ迷い、そこに住みついているように見える時でさえも。Chaque homme porte en lui un monde composé de tout ce qu'il a vu et aimé, et où il rentre sans cesse, alors même qu'il parcourt et semble habiter un monde étranger. (シャトーブリアン Chateaubriand Voyages en Italie, 1821)



あらゆることをしてきた私は

いろいろの楽しみの思い出がある

玉の井の女にほれてせっせと通ったのは二十いくつの時だったか

あれは今から思うと悲しみを買いに行ったようなものだ

楽しみと思っていたものが

すべて実は悲しみだったとも考えられる

今度こそほんとの楽しみだ

自殺を考えることが悲しみでなく

ほんとの楽しみであるようにするために

不思議な自殺法をあれこれと考えよう


ーー高見順「不思議なサーカス」より

『死の淵より』1964(昭和39)年



「あんたは運がいいよ」 

姉さんぶった語調でそう言って、女は細いしなびた手をのばして、俺たちの靴を取った。

「ウブな可愛いのが今日来たんだよ。それがあんたの相手……」

靴を両手でぶらさげて、家の中の下駄箱にしまいこんだ。

「初見世か」

「クララさん」と女は呼んだ。

「あいよ」 

奥からの返事は意外なしわがれた声だった。ひとをからかいやがってと、俺が女を睨んだとき、奥の部屋の障子が開いて、ワンピースの若い女が出てきた。ひと眼見て、俺は、

「こりゃ、いけねえ」

と首を縮めた。こめかみに頭痛膏を貼った婆さんの顔が、長火鉢の向うにのぞかれた。

「あいよ」はこの婆あの声だったのかと見たとき、障子がぴしゃりとしめられた。

「これから、ひいきにしてやってね」

と女は言った。

「お願いします」

とクララは恥しそうに言った。その口もとは俺の好きな受け口だった。いよいよ、いけねえと俺はどぎまぎした。相手は淫売なんだと思っても、このクララには、俺のなかの純情を急に目ざめさせるものがあった。つまり、これがひと目惚れという奴か。(高見順『いやな感じ』初出:「文学界」1960(昭和35)年1月~1963(昭和38)年5月)



カトレアだとか

すてきなバラだとか

すばらしい見舞いの花がいっぱいです

せっかくのご好意に

ケチをつけるようで申しわけありませんが

人間で言えば庶民の

ごくありきたりの でも けなげな花

甘やかされず媚びられず

自分ひとりで生きている花に僕は会いたい

つまり僕は僕の友人に会いたいのです

すなわち僕は僕の大事な一部に会いたいのです


ーー高見順「花」『死の淵より』



ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。


尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。


そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。


なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。denn dein wahres Wesen liegt nicht tief verborgen in dir, sondern unermeßlich hoch über dir, oder wenigstens über dem, was du gewöhnlich als dein Ich nimmst.(ニーチェ『反時代的考察』第3篇1節、1874 年、秋山英夫訳)