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2021年5月2日日曜日

どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

 神経科学、ーー進化心理学やら認知科学やらも含めーーについてはボクは知らない。むかしダマシオが流行ったころいくらか調べてみたことがあるけれどもう忘れたね。無知のことについては何も言いたくない。とはいえフロイトラカン派観点では、神経科学では、なぜこの女に惚れてあの女に惚れないのかってのはわからないと言う。

以下、いままで引用したものからカンタン系を抜き出して並べておくけど、フロイトラカン派ってのは、「どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?」ってのがキモなんだな。


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)



フロイトが Liebesbedingung と呼んだもの、つまり愛の条件、ラカンの欲望の原因がある。これは固有の徴ーーあるいは諸徴の組み合わせーーであり、愛の選択において決定的な機能をもっている。Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d’amour, la cause du désir. C’est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu’un une fonction déterminante dans le choix amoureux.  (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)


愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)



ーー《分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


…………………



人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。〔・・・〕愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い[rencontre au hasard]》がある。


しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン [l' automaton de l'amour])である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebesbedingung》と呼んだ。〔・・・〕


偶然の出会いは、主体が恋に陥る必然の条件を現実化する[La rencontre contingente réalise ici les conditions nécessaires à l'énamoration du sujet.]。


私はあなた方に愛の自動機械の一般的定式を三段論法の形で提案しよう。精神分析における愛の三段論法である[Je vous proposerai une formule générale de l'automaton amoureux sous la forme d'un syllogisme. Ce sera le syllogisme de l'amour dans la psychanalyse.]


われわれはフロイトの仮説から始める。


①主体にとっての根源的な愛の対象がある[ pour un sujet il y a un objet aimable fondamental,]

②愛は転移である[l'amour est transfert]

③後のいずれの愛も根源的対象の置換である[tout objet d'amour ultérieur ne sera qu'un déplacement de cet objet fondamental. ]


我々は根源的愛の対象を[a]と書く。その愛の対象の質は、属性[A]によって示される。[Aa]の意味は、対象aは愛すべき属性を持っているということである。主体が[a] に似た対象xに出会った時、すなわち[x ≡ a]の時、対象xは愛すべき[Ax]とみなされる。[Ecrivons a l'objet aimable fondamental. Sa qualité d'être aimable est désignée par le prédicat A. Aa veut dire que cet objet a a la propriété d'être aimable. Si le sujet rencontre un objet x, qui ressemble à a, soit (x ≡ a), alors l'objet x est considéré comme aimable, Ax.]


精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。


しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度に局限化された徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。


そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。


類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体は、対象x ーー彼が根源的対象ともった同じ関係の状況のもとの対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が彼自身と同じ関係にある状況。


フロイトは見出したのである、「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…


例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択である。あるいは母や父、あるいは家族のメンバーが主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(J.-A. Miller, 「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年, 摘要訳)




ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?


それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件、ラカンの欲望の原因です。これは固有の徴なのです。あるいはいくつかの徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛の選択に決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの単独的で内密な個人の歴史にかかわります。この固有の徴はときには微細なものが含まれています。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。


――そんなつまらないもので愛が生まれるなんて信じられない!


無意識の現実はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュとしての欲望の原因が愛のプロセスの引き金を引くのです。


ごく小さな特定のもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性の愛の対象選択に役割をはたします。でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です。女性たちは愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。(J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)









男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型 [Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛 [volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価 [Sexualüberschätzung] をしている。〔・・・〕


女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus]の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。とくに美しく発育してゆくような場合には女性の自己満足が生じてくる。〔・・・〕このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さでもって自分自身を愛しているにすぎない[Solche Frauen lieben, strenggenommen, nur sich selbst mit ähnlicher Intensität, wie der Mann sie liebt.]。


彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章1914年)




…………………



※付記


――幻想の役割はどうなのでしょう?


女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする[être battue, violée] ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ[ être une autre femme,]と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない[être ailleurs, absente]と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。


――男性のファンタジーはどうなのですか?


最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。


ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。


このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)


古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。他方、私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…


この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)


実に、女性たちが頻繁に告白する典型的な幻想がある。つまり女性たちは、享楽を獲得するために、男性の虐待の対象として自らを表象する。剥き出しにされ、打たれ、貶められること。あたかも真正な女を感じるために必要不可欠であるかのようにして。この「自らを苦しめること」は望んで遠回りの道を取る。たとえば美しくあれという要請は、しばしば美学化されたマゾヒズムの仮面にすぎない。


Il y a bien à rendre compte des fantasmes typiques que des femmes confessent communément, à savoir que pour atteindre à la jouissance, elles se représentent en elles-mêmes comme l'objet de la persécution masculine – dépouillées, battues, déchues – comme si c'était là la condition sine qua non pour se sentir authentiquement femme. Ce “se faire souffrir” emprunte volontiers des chemins détournés. Par exemple, l'impératif d'être belle n'est souvent que le masque du masochisme esthétisé. (J.-A. Miller, Mèrefemme, 2015)






破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)

男は女にとって破壊者でありうる。だが女の恍惚(狂喜)の手段でもありうる。L'homme peut être un ravage pour une femme, mais aussi le moyen de son ravissement. (J.-A. Miller, L'os d'une cure, 2018)




女性のマゾヒズムの秘密は、被愛妄想である。Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie(J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)

ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。


Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (エリック・ロラン Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)




……………


男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。…同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)



完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な言明がある、「男の症状は彼の女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。


誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場(荒廃場)である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。


偶然の一致ではないのだ、女性解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。


現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、「孤独の時代の愛 Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』1998年)



女らしさと男らしさの社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情を開き、愛することを。そして女性化することさえをも求められています。逆に女たちは、ある種の《男性化への駆り立てpousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられているのです。したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、自己自身で「享楽の様式と愛の様式」を身につけるように求められているのです。


Les stéréotypes socioculturels de la féminité et de la virilité sont en pleine mutation. Les hommes sont invités à accueillir leurs émotions, à aimer, à se féminiser; les femmes, elles, connaissent au contraire un certain « pousse-à-l'homme » : au nom de l'égalité juridique, elles sont conduites à répéter « moi aussi ». […] D'où une grande instabilité des rôles, une fluidité généralisée du théâtre de l'amour, qui contraste avec la fixité de jadis. L'amour devient « liquide »,[…]. Chacun est amené à inventer son « style de vie » à soi, et à assumer son mode de jouir et d'aimer. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)