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2021年9月30日木曜日

欲望は大他者への愛である

 

ラカンの欲望は、一般にイメージされる性的欲望等ではなく、もっと大きな意味をもっており、「大他者への愛」のことである。


愛と欲望これはナルシシズム的愛とアタッチメント(愛着)的愛のあいだのフロイトの区別である。l'amour et le désir …la distinction freudienne entre l'amour narcissique et l'amour anaclitique〔・・・〕

ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある。l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour1992)


ジャック=アラン・ミレールの言っている「ナルシシズム的愛とアタッチメント(愛着)的愛」とは次のこと。



ーー底部の原ナルシシズムの別名は自体性愛的欲動であり、これがラカンの享楽。その意味合いの詳細は「自体性愛文献」を参照。


後年のフロイト(『集団心理学と自我の分析』1921年)は、アタッチメント型の審級に属する大他者への愛=欲望に、両親や子供の愛[Eltern- und Kindesliebe]、友情[Freundschaft]、普遍的な人類愛[allgemeine Menschenliebe]、具体的な対象や抽象的な理念への献身[Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen]などを含めている[参照]。


フロイトに準拠したラカンにおける欲望とは事実上、願望のことなのである。


願望[vœu]とはフロイト用語のWunschであり、われわれはこの語を欲望と翻訳する[vœu , …Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.(Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME, 2016)



そしてラカンの定義においては愛は欲望によって構造化されている。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955


ーー「構造化されている」とは、「支配されている」とも言い換えうる、《想像界は象徴界によって常に支配されている[cet imaginaire est …dominé par le symbolique.]》 (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


愛とは、つまりナルシシズム、フロイトの自己愛[Selbstliebe]である。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme  (Lacan, S15, 10  Janvier  1968


ナルシシズムという概念も誤解があるが、先ほどの図表に示してあるように別に悪いものではない。誰もがその多寡はあれ、ナルシシズムをもっている。



ところで欲望=大他者への愛における「大他者」とは何か。この大他者とは言語の大他者、コミュニケーションの大他者である。



象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langageLacan, S25, 10 Janvier 1978

欲望は言語と結びついている。この言語の領域にはコミュニケーションがあり、大他者への呼びかけがある[le désir tient au langage  et à ce qui, dans le champ du langage, là où il est communication, fait appel à l'Autre. (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


欲望とは「自体性愛的欲動=リアルな享楽」のシニフィアン化である。


享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


ある時期以降のラカンは、シニフィアンは見せかけ(仮象)というようになった。


見せかけはシニフィアン自体だ! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン、S18, 13 Janvier 1971


したがって次のようにミレールは言う。


現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押しやる。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した。


le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)


ーー《モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)



私はほとんどこのモノ=欲動=享楽についてばかり書いているのだが、たまにはやめておこう。


とはいえ、欲望あるいは愛の底には常にモノの深淵がある。


①私は私の大他者[my Other]が欲望するものを欲望する。

②私は私の大他者[my Other]によって欲望されたい。

③私の欲望は、大きな大他者[the big Other]ーー私が埋め込まれた象徴的領野ーーによって構造化されている。

④私の欲望は、リアルな大他者-モノの深淵[the abyss of the real Other‐Thing]によって支えられている。


I desire what my Other desires; 

I want to be desired by my Other; 

my desire is structured by the big Other, the symbolic field in which I am embedded; 

my desire is sustained by the abyss of the real Other‐Thing (ジジェク、LESS THAN NOTHING2012)



リアルな大他者-モノとは、母なる原大他者、身体の大他者のことである(参照:二種類の大他者)。