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2021年9月2日木曜日

言っちゃあいけないこと


世間では言っちゃあいけないことがあるからな。


本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」20121月号又吉直樹対談) 


《徳なきテロは罪悪であり、 テロなき徳は無力である[la vertu, sans laquelle la terreur est funeste ; la terreur, sans laquelle la vertu est impuissante]》ってのもそのひとつなんだろうよ。このあまりにも名高い筈のロベスピエールの言葉が、ネット上でほとんど引用されてないからな、ターブーに近いのかもな。


でもテロなき革命なんてあるのかね。社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にたいする暴力とならざるをえないよ。つまりすべての革命はテロさ。テロが成功したら英雄であり、失敗したら極悪人ってだけだよ。


まだ「テロなき徳は無力である」のほうは、ネット上で数人引用してるのを見出したけど、「革命政府の諸原理について」はひとつしか行き当たらないよ。



革命政府は異常な活動を必要とする。まきに闘いの渦中にあるからである。革命政府は画一的で厳格な法には従わない。なぜなら、現在見られる諸状況は激動的にして流動的だからであり、特に新たなかつ急迫せる危険に対して、新しく迅速な政策を絶えず採用することを余儀なくされているからである。


Le gouvernement révolutionnaire a besoin d’une activité extraordinaire, précisément parce qu’il est en guerre. Il est soumis à des règles moins uniformes et moins rigoureuses parce que les circonstances où il se trouve sont orageuses et mobiles, et surtout parce qu’il est forcé à déployer sans cesse des ressources nouvelles et rapides pour des dangers nouveaux…

(ロベスピエール「革命政府の諸原理について」Robespierre, Sur les principes du gouvernement révolutionnaire17931225)



ま、もちろん次のでいいんだが、ともに読むべきだね、来るべき「自由平等平和」のために。


もし平和のうちにある人民政府の原動力が徳であるとすれば、革命における人民政府の原動力は徳であると同時に恐怖である。徳なき恐怖は罪悪であり、 恐怖なき徳は無力である。 恐怖は迅速、 峻厳、 不屈の正義に他ならず、 徳の放射物である。 それは特殊原則というより、 祖国緊急の必要に適用された民主主義の一般的原理の帰結である。


Si le ressort du gouvernement populaire dans la paix est la vertu, le ressort du gouvernement populaire en révolution est à la fois la vertu et la terreur ; la vertu, sans laquelle la terreur est funeste ; la terreur, sans laquelle la vertu est impuissante. La terreur n’est autre chose que la justice prompte, sévère, inflexible ; elle est donc une émanation de la vertu ; elle est moins un principe particulier, qu’une conséquence du principe général de démocratie, appliqué aux plus pressants besoins de la patrie,

(ロベスピエール「共和国の内政において国民公会を導くべき政治道徳の諸原理について」Robespierre, Sur Les Principes de Morale Politique Qui Doivent Guider La Convention Nationale Dans l'Administration Intérieure de la République, 179425)




ロベスピエールってのはルソーの思想とともに語られることが多いのだが、その向こうにはマキャベリがいるんじゃないかね。



これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行なわなければならない。(マキャベリ『君主論』)

一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、悪徳の評判などかまわずに受けるがよい。(マキャベリ『君主論』)



次に気質のもう一つの点に話を移すと、あらゆる君主にとって、残酷よりは憐れみぶかいと評されることが望ましいことにちがいない。だが、こうした恩情も、やはりへたに用いることのないように心がけねばならない。たとえば、チューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。(マキャベリ『君主論』)


このチューザレ・ボルジアがニーチェの超人さ。


「超人Übermensch]という語は、「近代」人、「善」人、キリスト教徒、およびその他のニヒリストたちと対立する最高に出来のよい人間のタイプを言いあらわすものでーーこの語が、道徳の絶滅者であるツァラトゥストラのような人物のロにのぼると、きわめて意味の深いものとなるのだがーーそれが、ほとんど至るととろで、しどく無邪気に、ツァラトゥストラ という形姿によってあらわされているものとは反対の価値を意味するものとして解されている。たとえば、より高い種類の人間の「理想主義的」タイプ、なかば「聖者」で、なかば「天才」であるひとつのタイプとしてというふうに。……


また、別のとんまな学者は、この語を楯にとって、ダーウィン 主義の嫌疑をわたしにかけた。「英雄崇拝」、知らずしらず心ならずも大のにせがねづくりになってしまったカーライルのあの思想、わたしがあれほど意地悪く拒否した「英雄崇拝」を、この語の中に認めると言う者さえ出てきた。「超人」の例なら、パルジファルなどより、チェザレ・ボルジアのようなタイプの人間を探した方がいい、とわたしがある人にささやいたら、その人は、自分の耳を信じようとしなかった。(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなによい本を書くのか」1888年)



超人ってのは悪魔のことさ、少なくとも既成秩序に憩う連中にとっては。


善人についての最初の心理学者ツァラトゥストラは、ーー従ってーー悪人の友[ein Freund der Bösen]である。デカダンス種の人間が最高種の位にのし上がったのは、その反対の種、すなわち確信をもって生きている強力な種類の人間を犠牲にすることによってのみ、起こりえたのである。畜群が汚れのない徳の栄光につつまれて輝くためには、例外人は悪人に貶められるほかはない。欺瞞があくまでも「真理」という名称を自分のその光学のために要求するとすれば、真に誠実な者は、最悪の名称のなかに編入されるほかはない。ツァラトゥストラのことばには、この点について何のあいまいさもない。彼は言う。善人たち、「最善の者たち」の正体を見ぬいたというそのことが、自分に人間一般に対する恐怖心を与えたのである。この嫌悪から自分には翼が生えたのだ、「はるかな未来へ飛瑚する」翼が、と。ーー彼は隠そうとしない。彼のような型の人間、相対的に超人的な型の人間は、ほかならぬこの善人たちと対比して超人的なのだということ、そして善人たち、正義の人間たちは、この超人を悪魔と呼ぶだろうというととを……—er verbirgt es nicht, dass sein Typus Mensch, ein relativ übermenschlicher Typus, gerade im Verhältniss zu den Guten übermenschlich ist, dass die Guten und Gerechten seinen Übermenschen Teufel nennen würden ...](ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」)