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2021年7月3日土曜日

立喰の鮓

 

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]( シェイクスピア、Troilus and Cressida)

男性にとっては肉体関係は恋の終点を意味しているが、女性にとってはそれが恋のはじまりとなることが多い。(吉行淳之介「移り気な恋」)


・・・ってのはアリかね、いまでも。

たぶんアリだよ。


でも男だって続く場合だってあるさ、落ちたあとは、女はオッカサンやることだな、世話女房をさ。そうしたら続くよ。男は立喰の鮓ぐらいは食うだろうけどさ。


三度の飯は常食にして、佳肴山をなすとも、八時(おやつ)になればお茶菓子もよし。屋台店の立喰、用足の帰り道なぞ忘れがたき味あり。女房は三度の飯なり。立喰の鮓に舌鼓打てばとて、三度の飯がいらぬといふ訳あるべからず。家にきまつた三度の飯あればこそ、間食のぜいたくも言へるなり。此の理知らば女房たるもの何ぞ焼くに及ばんや。  (荷風『四畳半襖の下張』)


これを最近の女は気づいちまったから、なかなか結婚しないんじゃないかね。どう思う、そこのきみ?


もっとも次のような女がすこしずつ増えてるんだろうけどさ。


現代的女性は、男を対象aにする。彼女は男に言う、あなたは単なる享楽の手段に過ぎないと。これが、協力し合って、愛のデフレをもたらしている。La femme moderne tend aujourd'hui à faire de l'homme un objet a. Elle lui dit tu n'es qu'un moyen de jouissance. Cela va de pair avec une certaine dévalorisation de l'amour.. (J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)



2021年7月2日金曜日

もはや引用しかない

 


私はそれを引用する

他人の言葉でも引用されたものは

すでに黄金化する


ーー吉岡実「夏の宴」


もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。(ボルヘス 『砂の本』1975年)


「きみにはこんな経験がないかね? 何かを考えたり書こうとしたりするとすぐに、それについて最適な言葉を記した誰かの書物が頭に思い浮かぶのだ。しかしいかんせん、うろ覚えではっきりとは思い出せない。確認する必要が生じる──そう、本当に素晴らしい言葉なら、正確に引用しなければならないからな。そこで、その本を探して書棚を漁り、なければ図書館に足を運び、それでも駄目なら書店を梯子したりする。そうやって苦労して見つけた本を繙き、該当箇所を確認するだけのつもりが、読み始め、思わずのめりこんでゆく。そしてようやく読み終えた頃には既に、最初に考えていた、あるいは書きつけようとしていた何かのことなど、もはやどうでもよくなっているか、すっかり忘れてしまっているのだ。しかもその書物を読んだことによって、また別の気がかりが始まったことに気付く。だがそれも当然だろう、本を一冊読むためには、それなりの時間と思考を必要とするものなのだから。ある程度時間が経てば、興味の対象がどんどん変化し移り変わってもおかしくあるまい? だがね、そうやってわれわれは人生の時間を失ってしまうものなのだよ。移り気な思考は、結局、何も考えなかったことに等しいのだ」(ボルヘス『読書について──ある年老いた男の話』)



もっとも「もはや引用しかない」というのは極論だと言ってもよい。少なくとも個人固有の音調はある。声の粒、言語の肉体がある。




◼️言葉と音調

言葉と音調[Worte und Töne ]があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているもののあいだの虹、仮象の橋ではなかろうか。


Wie lieblich ist es, dass Worte und Töne da sind: sind nicht Worte und Töne Regenbogen und Schein-Brücken zwischen Ewig-Geschiedenem?  〔・・・〕


モノに名と音調が贈られるのは、人間がそれらのモノから喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいのモノの上を舞って行くのだ。 


Sind nicht den Dingen Namen und Töne geschenkt, dass der Mensch sich an den Dingen erquicke? Es ist eine schöne Narrethei, das Sprechen: damit tanzt der Mensch über alle Dinge.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「快癒しつつある者 Der Genesende」1885年)

おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に[der Oberfläche, der Falte, der Haut]、踏みとどまることが必要だった。仮象[Schein]を崇めること、ものの形や音調や言葉を [an Formen, an Töne, an Worte]、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった、深みからして[oberflächlich ― aus Tiefe!]。 そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? モノの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。[Anbeter der Formen, der Töne, der Worte? Eben darum ― Künstler?](ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年版追加)


◼️声の粒

テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール[écriture vocale](パロールとは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。


古代弁論術には、古典注釈者たちによって忘れられ、抹殺された一部門があった。すなわち、言述の肉体的外化を可能にするような手法の総体であるVactio〔行為〕だ。演説者=役者が彼の怒り、同情等を《表現》するのだから、表現の舞台が問題だったのだ。


しかし、声を挙げるエクリチュールは表現的ではない。表現はフェノ=テクストに、コミュニケーションの正規のコードに任せてある。こちらはジェノ=テクストに、意味形成性(シニフィアンス)に属している。それは、劇的な強弱、意地悪そうな抑揚、同情のこもった口調によってもたらせるのではなく、声の粒[le grain de la voix]によってもたらされるのである。声の粒とは音色と言語活動のエロティックな混合物[un mixte érotique de timbre et de langage]あり、従って、それもまた朗詠法と同様、芸術の素材になり得る。自分の肉体を操る技術だ[l'art de conduire son corps](だから、極東の芝居ではこれが重視される)。言語〔ラング〕の音を考慮に入れれば、声を挙げるエクリチュールは音韻論的ではなく、音声学的である。その目的はメッセージの明晰さ、感動の舞台ではない。それが求めているもの(享楽を予想して)は欲動的な偶発事[les incidents pulsionnels]である。


それは、肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の艶、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節であって、意味の分節、言語活動の分節ではない。c'est le langage tapissé de peau, un texte où l'on puisse entendre le grain du gosier, la patine des consonnes, la volupté des voyelles, toute une stéréophonie de la chair profonde : l'articulation du corps, de la langue, non celle du sens, du langage. 



ある種のメロディー芸術がこの声のエクリチュールの概念を与えてくれるかもしれない。しかし、メロディーが死んでしまったので、今日では、これが最も容易に見出せるのは、多分、映画だろう。


実際、映画が非常に近くからパロールの音(これが、結局、エクリチュールの《粒》の一般化された定義だ)を捉え、息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。そうすれば、記号内容をはるか彼方に追放し、いわば、役者の無名の肉体を私の耳に投げ込むことに成功するだろう。


あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、享楽しているのだ。ça granule, ça grésille, ça caresse, ça rape, ça coupe : ça jouit. (ロラン・バルト『快楽のテキスト』1973年)


◼️言語の肉体

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。


その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。


もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。


傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。


いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



2021年7月1日木曜日

ラカンパズル

 


こういう言い方をするとマジメに研究している人に怒られるかもしれないが、ある程度フロイトラカンの用語の内実を掴んでしまえば、ラカン語彙をフロイト語彙と結びつける仕方はパズルみたいなものだ。


たとえばラカンはこう言っている。


ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)


ジャック=アラン・ミレールの注釈をひとつ介入させよう。


ラカンがサントームと呼んだものは、彼がかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


すると、ひとりの女はモノである、となる。


モノとは?


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


こうして、ひとりの女は異者となり、次の文とピッタンコとなる。


ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)



もうひとつミレールの注釈介入させよう。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要


上に見たように「ひとりの女=サントーム=モノ=異者」であり、次のフロイト文とピッタンコになる。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


もっとも次のことは知っておかねばならない。


固着概念は、身体的な要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)



これが判別できず、フロイトラカンの研究者たちは、1960年代からおそらく40年近く揉めていた。それは、ラカンの弟子筋ラプランシュ・ポンタリスの『精神分析用語辞典』(1967年)の、今から思えばとんでもない原抑圧の定義を初めとして、である。いまだってほとんどの研究者はわかっていない。それは表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動の表象代理 Vorstellungs-repräsentanz des Triebes)、あるいは欲動代理 Triebrepräsentanzについてだ。フロイトの記述の曖昧さもあり、ラカン自身彷徨った。


次の「一者のシニフィアン」が表象的要素、「享楽」が身体的要素だが、ジャック=アラン・ミレールでさえ(私の知る限りだが)真に明瞭に示すようになったのはこの2011年であり、フロイトの『抑圧』論文(1915年)からほとんど100年かかったことになる。


単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.  ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



仏女流ラカン派第一人者コレット・ソレールにおける「原抑圧=固着」の把握も2010年前後からのものであり、真の明言はわずか4年前のことだ。


精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance(Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)



………………


以下、別のパズルの材料をいくつか列挙する。どうぞテキトーに組み合わせて下さい。


モノは母である[das Ding, qui est la mère] (Lacan,  S7,  16 Décembre 1959)

(メラニー)クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, ](Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある[ le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, E853, 1964年)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


父の名は象徴界にあり、現実界にはない。le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel. ( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)



フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

フロイトはモノを異者とも呼んだ[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)



享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours]. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

女への固着(おおむね母への固着)[Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)](フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können.  (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)



現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004)


まだまだ材料はいくらでもある。いま上に列挙した材料は前回の記事の引用とかぶさるところが多いが、そこには別の材料も掲げてある。だがいくらか難解になるので、ここではこの程度にしておく。


………………


※付記


いま上に列挙した材料には、ジャック=アラン・ミレールが次のように言う理由が隠されている。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


女性の享楽の真の内実を掴むには、セミネール18から20のラカンではなく、セミネール21以降のラカンが重要である。巷間に流通しているセミネール20「アンコール」のラカンに依拠したままの女性の享楽の注釈は、完全にポイントを外している。重要なのは1974年以降のラカンである。


私のパズル頭では、ひとりの女は母への固着であり、女性の享楽とは、解剖学的女性における享楽ではなく、両性にある「母への固着の享楽」である。


享楽と反復と手と手を取り合っている[Jouissance et répétition ont partie liée]  (François Bony, Jouissance et répétition, 2015)



つまり享楽自体としての女性の享楽は「母への固着の反復」、「母なる女への回帰」である。実はこれはセミネール17のラカンにも現れている。


反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)



結局ラカンは、ほとんどすべてのフロイト学者たちが読み込めないところまで徹底的に追及した大いなるフロイト主義者だった。


ラカンは最も偉大なフロイディアンだった [Lacan a été le plus grand des freudiens](ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)





2021年6月30日水曜日

無意識の核「モノ=異者」

 


現実界としてのモノは、異者としての身体[Fremdkörper]であり、喪われた対象である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


「モノ=異者としての身体」は事実上、エスである。


フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる。à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. (ラカン, S7, 03  Février  1960)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


「事実上」とは、モノ=異者は原抑圧によって遡及的に発生するからだ。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

モノは分離されており、異者の特性がある[Ding …isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


上の文でラカンは厳密にフロイト語彙を使って「分離」と言っている。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう(原)抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

(原)抑圧されたものは異物(異者としての身体)として分離されている。Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper 〔・・・〕(原)抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, 。〔・・・〕


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである。[…] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)



結局、フロイトラカンにおける無意識の核(原無意識)はフロイトが1890年代に記した次の二文に収斂する。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 (異者としての身体[Fremdkörper] )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)


同化不能「unassimilierbaren」、これがフロイトラカンにおけるトラウマの意味である。


現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, ](ラカン、S11、12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


ラカンの現実界ーーあるいは《現実界の享楽 Jouissance du réel 》(Lacan, S23, 10 Février 1976)ーーとは、原抑圧によって「去勢された自己身体」(参照)としての「異者としての身体=モノ」であり、トラウマ(穴)である。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

享楽は現実界にある[ la jouissance c'est du Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

享楽は、抹消として、穴として示される他ない[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. ] (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)



いまみたように、穴=トラウマ=去勢であり、これは原抑圧によって生じる。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

原抑圧は常に去勢に関わる。[refoulement originaire[…]ce qui concerne toujours la castration.](JACQUES-ALAIN MILLER , CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)


原抑圧の別名は固着である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


以上をジャック=アラン・ミレールの簡潔な文で確認しよう。


去勢は享楽の名である[la castration est le nom de la jouissance ](J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

フロイトはモノを異者とも呼んだ[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。 La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré[Ⱥ]. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


現実界=享楽=去勢=モノ=異者=穴(トラウマ)である。ラカンにおける現実界はトラウマ界であり去勢界である。


ラカンが《身体は穴である le corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)と言うとき、これは原抑圧=固着による穴である。



ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



「身体は穴である」とは「身体は去勢されている」ということだ。人はみな去勢されている、喪われた対象がある。


ラカンのリアルな対象aとは、この「モノ=異者としての身体」の言い換えに過ぎない(参照)。




以上。



コンビニエント病

おい、もうきいてくんな、病気だよ、コンビニエント病だ。


「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエントに、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。(佐々木敦『ニッポンの思想』2009年)


何年か前に断片的に拾った箇所のひとつで、佐々木敦氏の書を読んだことはない。何かで一度カチッときたことのある名のように記憶するがそれはこの際どうでもよろしい。上の文は「なるほどそうだ」ということが言いたい。インターネット時代からとくにそうなったのだろうし、さらにはツイッターが多くの人に使われるようになった2010年代以降はいっそうそうだろう。人は語りたいのだ、真に突き詰めるよりは。


何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。


だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」になるためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、むなしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にすぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦の『齟齬の誘惑』序文、1999年)








マリラ・ジョナスというポーランド女

 



マリラ・ジョナスのマズルカはすごい。こういう演奏は祖国の女しかできないんじゃないか。ポーランド女が踊ってるんだ。静謐さのなかに突然湧き出す、密やかながら激しい情動。東欧の黒い土のかおりがしてきて、全粒子の黒パンと山羊のチーズ、深いタンニン臭の赤ワインが欲しくなる。


最初にOp. 68, No. 4でビックリして、そのあと聴いたOp. 68, No. 3もとってもいい。最晩年のショパンだ。でもOp. 17, No. 2もスゴイ。多くの人が弾くOp. 17, No. 4もいいけど、このあまり弾かれないOp. 17, No. 2がいまはお気に入りだ。ここには強いノスタルジーがある。


彼女はナチのポーランド侵攻にともない強制収容所に収監されていたが、ナチ高官に彼女のファンがいて脱走を手助けしてもらい、ブラジルへ亡命。その後、ルービンシュタインに見出され、1946年にアメリカデビュー。だが収容所トラウマから逃れることは出来なかったのだろう、心身の不調を繰り返し、1959年、48歳で死亡。




2021年6月29日火曜日

スゴイなあ

 






やあスゴイなあ、いまさらだけど。



このコンビネーションだってとても効いているように見えるんだが、ダメだったんだなあ。

ホリフィールドとの対戦は1996年の試合で、タイソンは1991年、25歳の時、レイプ事件があり約4年を棒に振る。1995年まで収監されており、その翌年のゲームだ。








2021年6月28日月曜日

束縛を排して休みなく前へと突き進む

 

ボクは独自のことを言っているつもりは毛ほどもないのだけどな。とくにフロイトラカンについては、巷間にはミスリーディングな注釈が多すぎるので、面倒を厭わず引用しつつこうだと言っている。


ここでは晩年のラカンの簡潔な二文を引こう。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.](Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


これを単純にミックスさせれば、享楽は死の欲動となる。どうしたってまがいようがない。

ボクは一文ですむ文のほうを好んで引用してきたけどさ。


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


享楽はマゾヒズム というのだっていいよ。


現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)


で、マゾヒズムは死の欲動だ。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)


ここでも、どうしたって享楽は死の欲動だ。


死はラカンが享楽と翻訳したものである[death is what Lacan translated as Jouissance.](J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES1988年)

死は享楽の最終的形態である[death is the final form of jouissance]( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006


この「死は享楽」というのは、「原享楽は死」と言い換えてもよい。


さらにこうも引用して四つ目の確認をしておくよ。


究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée. (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011


決定だ、バカにもわかる「享楽は死の欲動」。


巷間で一般的に使われている享楽という語は、剰余享楽のことだよ。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示され他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970

ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


で、この穴埋めとしての剰余享楽の別名は昇華だ。


昇華の対象。それは厳密に、ラカンによって導入された剰余享楽の価値である[des objets de la sublimation. …: ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir introduit par Lacan. ](J.-A. Miller, L'Autre sans Autre,  May 2013



以上、次の通り。





人はみな穴埋めしてるんだ。だから剰余享楽でいいよ、基本的には。


だが欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]、つまり穴埋めは十分にははなされない。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む ungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


欲動はメフィストフェレスの言うように、前へ突き進む。


すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](ラカン, E848, 1966年)


前に向かって、死に向かってとは、享楽の対象に向かってだ。


享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perduLacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン、S1120 Mai 1964


つまりは、《喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)に向かってだ。


これは究極的にはそうだと保留しておいてもよい。つまり死に向かわない反復強迫としてのみの死の欲動もある、《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.]》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


だが究極的にはこうだ。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939)


この欲動の別名をエスの意志と呼ぶ。ーー《エスの要求圧力の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。


Ichs […] Es gleicht so im Verhältnis zum Es dem Reiter, der die überlegene Kraft des Pferdes zügeln soll, mit dem Unterschied, daß der Reiter dies mit eigenen Kräften versucht, das Ich mit geborgten. Dieses Gleichnis trägt ein Stück weiter. Wie dem Reiter, will er sich nicht vom Pferd trennen, oft nichts anderes übrigbleibt, als es dahin zu führen, wohin es gehen will, so pflegt auch das Ich den Willen des Es in Handlung umzusetzen, als ob es der eigene wäre. (フロイト『自我とエス』第2章、1923年)



人にはみな「悦への渇き」、原享楽への渇きがある。


欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


このエスの意志の声、異者としての身体の声が聞こえない種族とは、父の名という心的外被が分厚すぎるエディプス的猿だけだよ。学者にはそれが多いだろうがね。


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



以上。