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2021年8月14日土曜日

なんでもバウボ[Baubo]

 


ヴェールが引き剥がされても真理がなお真理であり続けるという事を、我々は最早信じない。Wir glauben nicht mehr daran, dass Wahrheit noch Wahrheit bleibt, wenn man ihr die Schleier abzieht; 〔・・・〕

今日我々にとっては、全てを裸の[nackt]状態で見ようとしない事、全てのものの許に居合わせようとしない事、全てのものを理解し知ろうとしない事は、慎み[die Schicklichkeit]に適った事と見なされる。

Heute gilt es uns als eine Sache der Schicklichkeit, dass man nicht Alles nackt sehn, nicht bei Allem dabei sein, nicht Alles verstehn und „wissen“ wolle. 


「神様があらゆる所に居るって本当?」と小さな少女が母親に尋ねた。「でもそれは無作法な事だと思うわ」哲学者にとってはヒントだ!

 „Ist es wahr, dass der liebe Gott überall zugegen ist?“ fragte ein kleines Mädchen seine Mutter: „aber ich finde das unanständig“ — ein Wink für Philosophen! 


自然が謎と色とりどりの不確実性の背後に身を隠した時の蓋恥は、もっと尊重した方が良い。恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?


Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Räthsel und bunte Ungewissheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)





BauboOxford Classical Dictionary, as “A primitive and obscene female demon [...] originally a personification of the female genitals”.



真理はバウボ[Baubo]じゃないかね。


真理は女である[die wahrheit ein weib](ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886)


アリアドネだってバウボ[Baubo]だよ、たぶん。


迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿, 1882-1883






わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを[ was Ariadne ist!]……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


『エスの本 Das Buch vom Es』(1923)を記したゲオルク・グロデックは、「アリアドネが何であるか was Ariadne ist!」は、当初は Wer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか)」であったが、最終的に「was Ariadne ist! (アリアドネは何であるか)」に変えられていることをニーチェ 自筆原稿に当たって示している。


要するに究極の迷宮はバウボさ。


迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth](ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)

ああ、アリアドネよ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえないOh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus ...](ニーチェ、1887年秋遺稿)


海だってバウボだよ、きっと。


ニーチェの瞑想にとって海の波の風景が重要であったことを思いだしてもいいだろう。on se rappelle, en passant, l'importance du spectacle des vagues de la mer pour la contemplation nietzschéenne (クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

意志と波 Wille und Welle……


私はお前を知っている、お前の秘密を知っている。お前の起源を知っている! お前と私は実にひとつの起源から生まれたのだ! お前と私は実に同じ秘密をもっている!


ich kenne euch und euer Geheimniss, ich kenne euer Geschlecht! Ihr und ich, wir sind ja aus Einem Geschlecht! — Ihr und ich, wir haben ja Ein Geheimniss! (ニーチェ『悦ばしき知』第310番、1882年)


なんでもバウボさ。


バウボは、死の彼岸にある永遠の悦の性的象徴だね


ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志[Wille zum Leben]」

は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか永遠の生であり、生の永遠回帰である「Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖[die Zeugung]による、性の密儀[die Mysterien der Geschlechtlichkeit.]による総体的永生としての真の生である。


このゆえにギリシア人にとっては性的象徴[das geschlechtliche Symbol]は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛[Wehen der Gebärerin]が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・


創造の永遠の悦 die ewige Lust des Schaffens があるためには、生への意志がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、


――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・[In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens, religiös empfunden, -der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg.](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)




究極の悦の対象ってのは、フロイトラカン的にもバウボだからな


悦の対象としてのモノそれは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン、S1120 Mai 1964


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger,](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919)


アッタリマエのことさ、なんでもバウボってのは。


科学や知において、欲動は聖なるものとなる。すなわち「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。知を備えた人間は、聖性において自らをはるかに超える。In der Wissenschaft, im Erkennen sind die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht". Der erkennende Mensch ist in der Heiligkeit weit über sich hinaus. (ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939)





問いはむしろ殆どの人はなぜこのバウボの真理にいまだ知らんぷりしてるのかだな。

別の言い方なら人はなぜ賎民のまま居続けたいのか、なぜ衛生学ばかりに耽っているのかだ。


宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

生は悦の泉である。が、どんな泉も、賎民が来て口をつけると、毒にけがされてしまう。Das Leben ist ein Born der Lust; aber wo das Gesindel mit trinkt, da sind alle Brunnen vergiftet. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「賎民 Vom Gesindel1884 年)

宗教は衛生学と呼んだほうがよい”Religion”, die man besser als eine Hygiene bezeichnen dürfte, (ニーチェ『この人を見よ』)


賎民であることにたえられなかったひどく聡明な芥川は、死の直前こう言っている。


ニイチエは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それ等は我々におのづから死ぬまで健康を保たせるであらう。(芥川龍之介「西方の人」昭和二年七月十日)


これはフロイトの言っていることとほとんど等価だ。


宗教的観念は、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。daß die religiösen Vorstellungen aus demselben Bereich hervorgegangen sind wie alle anderen Errungenschaften der Kultur, aus der Notwendigkeit, sich gegen die erdrückende Übermacht der Natur zu verteidigen.(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第4章、1927年)


自然とは究極的には、沈黙の死の女神[schweigsame Todesgöttin 、つまりバウボのことであり、その防衛としての一神教的宗教や文化とはエディプス的父、父の名のことだ。


ラカンは父の名を終焉させた[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. ]〔・・・〕つまり大他者は見せかけに過ぎない[l'Autre n'est qu'un semblant(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96

ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる。Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019


もっとも見せかけ(仮象・嘘)にまったく耽らず、バウボの深淵に直面したら、パックリやられて死んじまうということはあるんだが、あまりにも素朴な嘘が多いよ。


おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?[- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags1885年)

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif ]そのものがあるすべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955



ニーチェはメデューサの首に公には触れなかったが、ちゃんとノートにあるんだ。これがバウボに決まっている・・・


ツァラトゥストラノート:メドゥーサの首としての偉大の思想。すべての世界の特質は硬化する。凍りついた死の苦悶[In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf](ニーチェ遺稿.Winter 1884 ― 85






信仰のプラセボ効果

 


いやあ大丈夫だよ、気にすんな。一神教を信仰するのだって悪くないさ。ニーチェやフロイトってのは、キリスト教文化のなかで「神はない」とか「神はイリュージョン」、あるいは「宗教は賎民の関心事」「宗教は強迫神経症」とか言ってるわけで、日本的文脈とはわけがちがうよ。


そもそも何かを信仰してるほうが効果があるに決まってんで、ヨガや座禅だってカミサマを信じてたほうがずっといいよ。プラセボ効果ってものがあるからな。


ちょっと芝居っ気がありすぎるかもしれないけれど、処方が新しくなるときの私は「効きますように」といって渡します。そのとき片手で軽く祈ることもあります。ご承知のように、向精神薬のプラセボ効果は30パーセントであり、薬効はそれに10パーセントかそこらを上乗せするわけですから、この「効きますように」は無意味ではないと思います。(中井久夫「患者に告げること、患者に聞くこと」)

一般には漢方薬は処方者への信頼なしでは効かない。(中井久夫「トラウマについての断想」)


新興宗教だってアジールの機能はあるんだろうからな、オウムのようにならなかったら、若い人たちにとって救済の場になってるはずさ。電車のなかで若い女を切りつけるよりはずっとマシだよ。

絆の場になっているはずだからさ。


きずな 谷川俊太郎


ひとりをひとりにむすび

ひとりをひとりにからませ

ときにひとりとひとりをしばる

みえないうんめいの いと

ひとからひとへ めぐりつづけるエネルギー

あいしあうものを きずなはむすぶ

にくしみあうものを きずなはむすぶ

みしらぬものどうしすら きずなはむすぶ

ひとりではいきていけない わたしたちのいのちづな

きずな



もっとも人を縛ったり憎しみあうものを結んだりさえしちまうことだな、


絆ってのはファシズムのことだよ


「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)で、更に「ファッショ」の語源はラテン語の「ファスケス」(fasces、束桿)である。(Wikipedia


ま、でも差別的になったり排他的になってさえいなければな、当面許容すべきじゃないかね。だからバカにするつもりはないよ。


とはいえこういうことはあるな


信者の共同体そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


つまりこうなってないのは稀ってことはあるからな。


ニーチェは愛の宗教の信者どころか愛自体の信者さえこう言っているぐらいだからな。

ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである[Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott.](ニーチェ『善悪の彼岸』第67番、1986年)

愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する[der Liebende will den unbedingten Alleinbesitz der von ihm ersehnten Person,]〔・・・〕すなわち愛はエゴイズムである[Liebe …Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)


これはたぶん少し考えるだけで受け入れざるを得ないはずだよ。八方美人的な愛の実践者なんて誰も信じない。ここがヤバいとこさ。




2021年8月13日金曜日

われわれはみな原始人である

 


忘れてはならない。太古の[archaïque]という語をフロイトは使っていることを。太古の分析 l'analyse à l'archaïque]とは、厳密にわれわれの根の分析であることを。原点としては、われわれはみな原始人である[nous sommes tous des primitifs.  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 29 MARS 1989)


自我の核(私は後にそれを「エス」と呼ぶようになる)は、人間の魂の属性の「太古の遺伝」であり無意識的である[der Kern des Ichs (das Es, wie ich es später genannt habe), dem die »archaische Erbschaft« der Menschenseele angehört, unbewußt ist,](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年)


フロイトをはじめとする精神分析家たちが「原始人」に関心をもつのは、主に現代に生きる個人の原始時代、つまり幼児期のリビドー生活を探るためである。


リビドー理論を私の考えるように正しく発展させるための第三の流れは、幼児や原始人の心的生活を観察し解釈することから生じてくる。原始人のもっている特性は、もしもそれらが個々に存在しているとするならば誇大妄想の部類にいれることのできるものであろうが、われわれがそこに見出すのは自己の願望や心的作用がもつ力の過大評価、「観念の万能」Allmacht der Gedanken、言葉のもつ魔力への信仰、外界に対する技巧、これらの誇大妄想的な前提の徹底的な応用として現われる「魔法」Magie などである。児童の発達は原始人のそれに比べるとわれわれにはずっと不明瞭なところが多いが、われわれはこれとまったく類似した外界に対する態度を現代の児童に期待するのである。(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


フロイトは1914年に上のように、観念の万能[Allmacht der Gedanken](思考の全能性)という表現を使っているが、前年の1913年に書かれた『トーテムとタブー』の第三論文にはこうある。


われわれは、観念の万能とアニミズム的思考方法を確認させるようにな印象に「不気味なもの」という性格を一般にあたえているように思われる。Es scheint, daß wir den Charakter des »Unheimlichen« solchen Eindrücken verleihen, welche die Allmacht der Gedanken und die animistische Denkweise überhaupt bestätigen wollen, (フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)


「不気味なもの」とは、「外にある家(不気味なもの)」で示したように、フロイトの異物(異者としての身体)と等価であり、トラウマのことである。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004


享楽自体、トラウマである、ーー《われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. 》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


人は成人になってもこの異物=トラウマが回帰する。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


人は「成熟」したり「修行」を積めば、この異者としての身体に対して完全に防衛できると思い込むのは、(少なくともフロイトラカンにおける)精神分析観点からは「傲岸不遜」ーーカトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス  ὕβρις)と事実上同じことだとしておこうーーである。せいぜい飼い馴らしが可能なだけであり、しかも折を見て不気味な異者は、自我の制御の檻を突き破って野獣の姿を顕わす。古代からある祭(カーニバル)の機能、その放逸は、制度的に野獣に餌を与える仕組である。現代でも、たとえばスポーツ観戦にときに伴う放縦は、その穏やかな形態であると言い得る。


さてここで「個人的先史時代」を語っている中井久夫を引こう。


幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

 

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収P167-170


ラルヴァ期の記憶は、分析困難であっても必ず残存している。この残滓がジャック=アラン・ミレールのいう「原点としては人はみな原始人」の含意である。


さらに中井久夫は、幼児型記憶は外傷性記憶としつつ、フロイトの「異物」概念を使って次の如く記述している。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


この幼児型外傷記憶を分析することが、後期フロイトの「太古の分析=エスの分析」の基本ということになる。前期フロイトの「自由連想」とは、このエスの分析には馴染まない。せいぜい力動的無意識、すでに心的装置内にある前無意識ーーフロイトは「無意識の後裔」と呼んだーーに対応しうるだけであり、原無意識、異物(異者身体)としての「欲動の根」には対応できない。


「太古の遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、普通はただエスのことを考えている[Wenn wir von »archaischer Erbschaft«sprechen, denken wir gewöhnlich nur an das Es ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)




何よりもまずここに、一般的な心理学とフロイト的なメタ心理学[Metapsychologie]との相違がある、ーー《幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,》(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


この幼児期の出来事の別名がリビドーの固着(欲動の固着=享楽の固着)である。



人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)


ジャック=アラン・ミレールの言っているように、享楽と欲望の相違は固着にかかわる。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



いわゆる「健常者」における愛の条件自体、この固着にかかわる。


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015


これは、プルーストが「肉体の傷」という表現を使って、次のように記している内容と相同的である。


ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)


ドゥルーズが《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない[les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime]》(『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)としたのは、この意味である。





2021年8月12日木曜日

フロイトのニーチェパクリ(?)


宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

生は悦の泉である。が、どんな泉も、賎民が来て口をつけると、毒にけがされてしまう。[Das Leben ist ein Born der Lust; aber wo das Gesindel mit trinkt, da sind alle Brunnen vergiftet. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「賎民 Vom Gesindel1884 年)


ここでの宗教は一神教であり、ニーチェは多神教あるいはアニミズムを否定しているわけではない。


神性はある。つまり神々はある。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年)

私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente, PDF


さらにニーチェは神は至高の力だと言っているが、神は欲動だということだ。


神は至高の力である。これで充分だ![Gott die höchste Macht - das genügt! ](ニーチェ遺稿、1987

科学や知において、欲動は聖なるものとなる。すなわち「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。知を備えた人間は、聖性において自らをはるかに超える[In der Wissenschaft, im Erkennen sind die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht". Der erkennende Mensch ist in der Heiligkeit weit über sich hinaus. ](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888


これはすでにクロソウスキーが言っている。


永遠回帰〔・・・〕ニーチェの思考において、回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない[L'Éternel Retour …dans la pensée de Nietzsche, le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance. ]〔・・・〕

しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか[Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? ](クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


要するに、神は実存の永遠の砂時計[Die ewige Sanduhr des Daseins]だ。


お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛とあらゆる悦[jeder Schmerz und jede Lust]、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰するにちがいない。しかもすべてが同じ順序でーーこの蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。実存の永遠の砂時計 Die ewige Sanduhr des Daseins]はくりかえしくりかえし回転させられる。ーーそしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」


»Dieses Leben, wie du es jetzt lebst und gelebt hast, wirst du noch einmal und noch unzählige Male leben müssen; und es wird nichts Neues daran sein, sondern jeder Schmerz und jede Lust und jeder Gedanke und Seufzer und alles unsäglich Kleine und Große deines Lebens muß dir wiederkommen, und alles in derselben Reihe und Folge – und ebenso diese Spinne und dieses Mondlicht zwischen den Bäumen, und ebenso die ser Augenblick und ich selber. Die ewige Sanduhr des Daseins wird immer wieder umgedreht – und du mit ihr, Stäubchen vom Staube!« (ニーチェ『悦ばしき知』341番、1882年)


この実存の永遠の砂時計 Die ewige Sanduhr des Daseins]、この永遠回帰、これが不気味なもの[Unheimlich]だ。


不気味なものは人間の実在「 Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)


ーーより詳しくは「不気味な実存の永遠の砂時計」を見よ



これらはフロイトとピッタンコであり、パクったんじゃないかね


神は不気味なものである[Gottes …Er ist ein unheimlicher](フロイト『モーセと一神教』2.41939年)


外にある家(不気味なもの)」で示したように、フロイトの不気味なものとは、反復強迫=永遠回帰=死の欲動である。


同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr]〔・・・〕


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫[inneren Wiederholungszwang を思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche1919年)


同一の出来事の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは(ニーチェの)同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


というわけで、ツァラトゥストラのグランフィナーレのお呼びだ。



悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ[Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.]〔・・・〕


すべての悦は永遠を欲する![alle Lust will - Ewigkeit! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第91885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する![Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)




何はともあれ、ニーチェはとってもえらいんだよ



ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden."  (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung1925年)




でも日本的超訳ニーチェ、つまり骨抜きニーチェのたぐいだけは避けないとな、そのあたりのチョロチョロした研究者の注釈も似たようなもんだよ。