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2022年4月9日土曜日

仮にブチャが西側プロパガンダの「大嘘」だったとしても

 


【ヒトラーの大衆扇動術】

大衆は愚か者である。

同じ嘘は繰り返し何度も伝えよ。

共通の敵を作り大衆を団結させよ。

敵の悪を拡大して伝え大衆を怒らせろ。

人は小さな嘘より、 大きな嘘に騙される。

大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな。

利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ。

貧乏な者、病んでいる者、困窮している者ほど騙しやすい。

都合の悪い情報は一切与えるな。都合の良い情報は拡大して伝えよ。

宣伝を総合芸術に仕立て上げる。大衆の視覚聴覚を刺激して感性で圧倒しろ。



ーーこの「ヒトラーの大衆扇動術」はネットに落ちているものだが、とても上手いまとめだね、誰がこうまとめたのか不詳だが。「人は小さな嘘より、 大きな嘘に騙される」なんてとくにいいなあ、この今のプロパガンダ合戦においての指摘として。


以下、小林秀雄版を掲げる。



◼️小林秀雄による「ヒトラーの大衆煽動術」


①人生の根本は獣性である

彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。


②大衆に対する徹底した侮蔑とプロパガンダの力に対する全幅の信頼

人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。


③大衆は支配されたがっている

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。


④とてもつく勇気のないような大嘘を、大衆は真に受ける

大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。


⑤大衆の目を、特定の敵に集中させて紋切型を繰り返す戦術

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。


これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。


⑥教養は見せかけであり、真理とは実際は自負と欲念

ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。


⑦悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう

悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)



この今重要なのはとくに④だね、《彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。》


「仮に」ブチャ事件が西側プロパガンダの大嘘だったとして、それが瞭然とバレてもすでに「ロシアの悪の仕業」という強い印象が人びとに刻印されてしまっている。とすれば西側プロパガンダのヒトラー的戦術はもはや勝利間違いなしじゃないか。あれは実に巧みな先制攻撃だ。


次のような西側プロパガンダに大いなる疑義を投げかける論もそれほどは機能しないんじゃないか。とくに日本では中堅国際政治学者の米ネオコン宗教集団が跳梁跋扈して西側プロパガンダの拡声器になっているから。



◼️「ブチャ」事件:ロシア・ウクライナ危機 浅井基文 4/5/2022

◼️「ブチャ虐殺を解説する『専門家』への疑問 - その矛盾と杜撰と飛躍」

世に倦む日々 4/8

◼️市民虐殺の濡れ衣をかけられるロシア 田中宇 2022年4月8日   



「仮に大嘘だったら」という話だからな、強調しておくよ、これを。ボクはまだナナサンぐらいだな、どっちが7かは言わないでおくけど。


何はともあれ連中は確信犯だからな、シンソコ一般大衆をバカにしてんだよ









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以下、フロイト版も付け加えておこう。


◼️フロイトの「集団心理学と自我の分析」ー


フロイトの集団心理学は、ヒトラー大躍進の序文である。人はみなこの種の虜になり、群衆[foule]と呼ばれるものが集団になっての捕獲[la prise en masse]、ゼリー状の捕獲になるのではないか?

FREUD …la psychologie collective…préfaçant la grande explosion hitlérienne…pour que chacun entre dans cette sorte de fascination qui permet la prise en masse, la prise en gelée de ce qu'on appelle une foule ?(ラカン, S8, 28 Juin 1961)


大衆は怠惰で短視眼である[die Massen sind träge und einsichtslos]。大衆は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。(フロイト『ある錯覚の未来』第1章、1927年)


集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)


集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)


集団は衝動的[impulsiv] で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によって導かれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)


集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感[Allmacht] をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)


集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止[Triebhemmungen] が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団における情動興奮 [Affektsteigerung]と思考の制止[Denkhemmung] という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)


原初的な集団は、同一の対象を自我理想[Ichideals」の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する[identifiziert」 集団である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)


理念 [führende Idee]がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つきを呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)


(自我が同一化の際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物のたった一つの徴[einzigen Zug]だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして同情は同一化によって生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]。


…同一化は対象への最も原初的感情結合である。…同一化は退行の道を辿り、自我に対象に取り入れ [Introjektion des Objekts]をすることにより、リビドー的対象結合[libidinöse Objektbindung] の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章)


信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容 [Grausamkeit und Intoleranz ]になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)



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ゼレンスキーももはや居直り気味なんじゃないかね、アドルフ・ゼレンスキーとして。