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2022年6月13日月曜日

エビデンスはプロパガンダである


 

だな、現在ならコロナワクチンに限らず、ウクライナ戦争情報も同じく。


神田橋條治)わたくしは EBM をめぐってイライラしていた。EBM(エビデンスに基づく医療)推進派の意見は正当なものだと思えるのに、わたくしの中では嫌悪感が湧くのだった。〔・・・〕イライラから注意をそらさないことで連想が進んだ。そして分かった。EBM は医療の場に多数決を持ち込むことであり、患者とはおおむね少数者であり少数者に寄り添うという医療者の体質となじまないのだと分かった。〔・・・〕

教育の場に EBM が導入されると、少数者へ寄り添うという医療者の気質は抑圧されて、公衆衛生行政官のような、正しい判断に終始する臨床家(?)が育つだろうと心配になった。 (『精神科における養生と薬物』 神田橋條治 八木剛平 )


怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。〔・・・〕

医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。複雑系においては「プログラム」は成立せず、もっと柔軟でエラーの発生を許容する「レシピ―」の概念によって止揚されねければならないことは数学者の金子・津田の述べるとおりであると思う。「レシピ―」によれば状況に応じていろいろ似たものを使い、仕方を変えてもとにかくそれらしい料理ができる。「レシピ―」の実現のために用いられるのが「スキル」であり「技術・戦術・戦略のヒエラルキー」である。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」)




エビデンスとは、証拠、根拠、証明、事実のことだ。これは何度も繰り返している古典的な話だが、「エビデンスはない」という前提から人は始めなければならない。エビデンスはプロパガンダだと。


T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」『隠喩としての建築』所収、1983年)

ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収、1983年)


この柄谷の言っていることをラカンは物理学に関して一言で言っている。


物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que

c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](Lacan, S16, 20 Novembre 1968)


エビデンスとは言説という理論=形而上学の下で見出される解釈である。


科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である[daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht] (ニーチェ『 悦ばしき知 』第344番、1882年)

物理学とは世界の配合と解釈にすぎない[dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung](ニーチェ『善悪の彼岸』第14番、1886年)


繰り返せば、ほとんどのエビデンスとは主流イデオロギーのもとでのレトリック・プロパガンダに過ぎない。そして主流イデオロギーを盲信する者たちーー私は彼らをニーチェの善良な仔羊[guten Lämmern]をめぐる記述にちなんで「羊脳」と呼ぶのを好むがーーは、反主流イデオロギー的言説を「陰謀論」と呼ぶ習慣があるようだが、陰謀論とはかつて異端審問やら魔女狩りやらと呼ばれたものの現代版言い換えに他ならない。例えば、異端審問の憂き目に出会ったガリレオの地動説は現代なら「陰謀論」と呼ばれうるだろう。