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2022年7月28日木曜日

ルグランタン病

 エアリプするが、貴君のツイートはかなりの場合、ルグランタン病だね。まったく気づいていないようだが。


「もう何度も奥方さまを訪ねてお見えになった例のかたでございます。」〔・・・〕うるさがられている先刻の訪問客がはいってきて、無邪気さと熱意のこもったようすでヴィルパリジ夫人のほうにまっすぐあゆみよった、それはルグランダンであった。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」井上究一郎訳、p 202)

私はすぐにルグランダンに挨拶の言葉をかけに行きたかった、しかし彼は私からできるだけ離れた位置をずっとまもりつづけているのであった、察するところ、大いに凝った表現でヴィルパリジ夫人にやたらにふりまいているお追従を私にきかれたくなかったのであろう。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」p 264)


……私はルグランダンのほうにあゆみよった、そして彼がヴィルパリジ夫人のところに顔を出しているのをすこしも罪悪と思わなかった私は、自分がどんなに彼を傷つけようとしているかを知らず、またどんなに傷つける意図があるように彼を思いこませるおそれがあるかをも知らずに、こういった、「これはこれは、あなたをサロンでお見かけするからには、ぼくがサロンに顔を出すのはゆるされていいというのも同然ですね。」

ルグランダン氏は私のこの文句から結論したのだった(すくなくとも数日後に私の上にくだした彼の判断はそうだった)、私が悪にたいしてしかよろこびを感じない心底からいじわるのちんぴらであると。M. Legrandin conclut de ces paroles (ce fut du moins le jugement qu'il porta sur moi quelques jours plus tard) que j'étais un petit être foncièrement méchant qui ne se plaisait qu'au mal. 


「こんにちはの挨拶からはじめる礼儀ぐらいは心得ていてもらいたいものですね」と彼は手もさしのべず、腹立たしげな下品な声で私に答えた、その声はいままでの彼からは想像もつかない声であり、ふだんの彼の口調との合理的関係は何もなく、彼がいま身に感じている何物かとの、いっそう直接的な、いっそう切実なべつの関係につながっていたのだ。

それというのも、われわれが身に感じている事柄をあくまで人にかくそうときめるとき、われわれはまずそれをどんな方法で人に言いあらわそうか、などと考えることはなかったからだ。だから、突如として、われわれの内部に、醜悪な見知らぬ獣[ en nous une bête immonde et inconnue]が声をあげ、その語調が、無意識(無意志的[involontaire])に出てくる告白を受けとる相手に、恐怖をあたえることにもなりかねないのであった、そのような告白は、多くは自分の欠点や悪徳の、省略化された、ほとんど抗しがたい、無意識のあらわれで、あたかも殺人犯が、犯行を知らない人に、罪を告白せずにはいられなくなり、急に間接的な奇妙なやりかたでしゃべりだす、そんな自白とおなじような恐怖を、きく人にあたえるのだ。

C'est que, ce que nous éprouvons, comme nous sommes décidés à toujours le cacher, nous n'avons jamais pensé à la façon dont nous l'exprimerions. Et tout d'un coup, c'est en nous une bête immonde et inconnue qui se fait entendre et dont l'accent parfois peut aller jusqu'à faire aussi peur à qui reçoit cette confidence involontaire, elliptique et presque irrésistible de votre défaut ou de votre vice, que ferait l'aveu soudain indirectement et bizarrement proféré par un criminel ne pouvant s'empêcher de confesser un meurtre dont vous ne le saviez pas coupable. 

むろん私は、観念論、いかに主観的な観念論も、大哲学者に、美食家で通すさまたげをしないし、執拗にアカデミーに立候補するさまたげをしないことをよく知っていた。それにしてもルグランダンは、憤りやお愛想にひきつれる彼の運動神経のすべてが、この地上でよい地位を占めたいという欲望にあやつられていたのであってみれば、自分はべつの遊星に属する人間だなどとあんなにしばしば人のまえで念をおす必要はまったくなかったのである。

「そりゃね、私のように、どこそこにこいとつづけざまに二十度もうるさくせめたてられたら」と彼は低い声でつづけた、「たとえ自分の自由をまもる権利はあっても、やっぱり無作法な田舎者のようなふるまいはできませんからね。」(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」p 268)



ボクは「われわれの内部にある醜悪な見知らぬ獣」にいくらか敏感なタチなんだ、「教育の上塗りによって隠されている粗悪な血」にね。これはほとんど誰にでもあるよ、プルーストやニーチェ自身にだってある。




最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……[so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...]

わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗り(育ち)によって隠れている。

Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt. 


そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)




貴君は、プルーストやニーチェを「再読」したほうがいいんじゃないかね、ーー《カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女はげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。》(プルースト「見出された時」)



芸術的遠方から自らの道化ぶりを笑い飛ばすためにさ。


われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方[künstlerischen Ferne]から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする [über uns lachen oder über uns weinen] ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年)