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2022年7月8日金曜日

トラウマの回帰は身体の記憶のレミニサンス

折に触れて何度も繰り返してるけど、フロイトラカンのトラウマの定義は「自己身体の出来事」の出来事であり、「不変の刻印」のこと。だから喜ばしいトラウマ、その回帰(反復強迫)もある。巷間で使われる「トラウマ」よりもずっと大きな含意がある。

以下、最も基本セットだ。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕このトラウマの作用は、トラウマへの固着と反復強迫の名の下に要約される。[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang.]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



享楽とはこの身体の出来事のことであり、つまり享楽はトラウマ(トラウマへの固着)だ。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est …de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,…elle est l'objet d'une fixation].  (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01)



例えば真の芸術体験ってのはみなトラウマだよ、身体の出来事だ。反復強迫しない芸術体験なんてのは似非体験。固着された身体の出来事に回帰する、それが芸術体験。ーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.]》 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)


プルーストの『失われた時を求めて』は何よりもまずトラウマの小説だよ。レミニサンスの小説、身体の出来事の回帰の小説だ。《私は作品の最後の巻―ーまだ刊行されていない―ーで、無意識的再想起(レミニサンス)の上に私の全芸術論をすえる[ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art,  ]》(Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)。プルーストはこう書いてるが、レミニサンスは『見出された時』だけではもちろんない。最初からある。レミニサンスがすべての芸術の基盤としたのが最終巻ということだ。



トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)[l'étranger]は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての幼児の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)


ここには喜ばしいトラウマのレミニサンスがある、最初は不快だったとは、先にあげたフロイトが書いているように回帰には喜ばしいものであっても常に「心的痛み」psychischer Schmerzがあるから。《痛み[Douleur]はただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう》(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』2005年)


私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章、1980年)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)


ーーラカンが《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)というとき、享楽の回帰は事実上「痛みの回帰」であるだろう。



バルトは「身体の出来事の記憶」を簡潔に「身体の記憶」と呼んだ。これがレミニサンスするんだ。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)





「身体の記憶」とはラカンの定義上、トラウマの記憶、異者としての身体の記憶。

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](ラカン、S23、11 Mai 1976)



これも付け加えておこう。これこそ身体の記憶のレミニサンス。



彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンスにふけっていた[j'étais froid devant des beautés qu'ils me signalaient et m'exaltais de réminiscences confuses]〔・・・〕そして戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった[je m'arrêtai avec extase à renifler l'odeur d'un vent coulis qui passait par la porte. « Je vois que vous aimez les courants d'air », me dirent-ils. ](プルースト「ソドムとゴモラ」)

わたしたちは生がリアルなものだと信じていない、なぜなら忘れてしまっているから。けれども古い匂を嗅いだら、突如として酩酊する[De sorte que nous ne croyons pas la vie réelle parce que nous ne nous la rappelons pas, mais que nous sentions une odeur ancienne, soudain nous sommes enivrés;] (プルースト書簡 Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)


前回引用した中井久夫の文も併せて。異者としての身体 [Fremdkörper] =異物だ。



一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ここでは静止的視覚映像とあるが、これだけではない。中井久夫は別の場所では声やにおいのフラッシュバックを書いている。バルトのいうように響き、光もレミニサンスする。人には五感のなかでそれぞれ固有に鋭敏な感覚がある。プチットマドレーヌはまずは味覚だ。マドレーヌは実はそれだけではないが。溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえるプチット・マドレーヌと呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ[un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques]》 (プルースト「スワン家のほう」)。帆立貝の回帰の相もある、つまり原トラウマのレミニサンスだ。


以上。