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2022年8月7日日曜日

うしろ向きのモノ

 

おもうふこと。―あゝ、けふまでのわしの一生が、

そっくり騙されてゐたとしてもこの夕栄のうつくしさ  金子光晴




そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。(芥川龍之介『歯車』昭和2年3月23日-4月7日)


象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)





今朝がた 夢にあなたを見た

あなたはうしろ向きで

地面に しゃがんでいた

ぼくは声をかけようとしたが

やめた

あなたが ぼくのことを

憶えていない と思えたから

死の床のあなたは

未知のむこうが愉しみだ

と 顔じゅうでかがやいた

むこうがわに着いて

そこがどんなか

知らせる方法が見つかったら

きっと背中を押すから

と ほほえんだ

あれから七年

あなたは忘れてしまったのだ


ーー高橋睦郎「おくりもの 七年後の多田智満子に」より



ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)




おかあさん

ぼく 七十歳になりました

十六年前 七十八歳で亡くなった

あなたは いまも七十八歳

ぼくと たったの八歳ちがい

おかあさん というより

ねえさん と呼ぶほうが

しっくり来ます

来年は 七歳

再来年は 六歳

八年後には 同いどし

九年後には ぼくの方が年上に

その後は あなたはどんどん若く

ねえさんではなく 妹

そのうち 娘になってしまう

年齢って つくづく奇妙ですね


ーー高橋睦郎「奇妙な日」



………………



現実はない。現実は幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)

じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面[grimace du réel]として理解されるべき現実である[alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.](Lacan, Télévision, AE512, Noël 1973)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist(フロイト『不気味なもの』第3章、1919年)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 

しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.


冗談にも「愛はノスタルジーだ」と言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort

そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen.

したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。

Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. (フロイト『不気味なもの』第2章、1919年)



※「象徴界・想像界・現実界の定義


…………………



生きてゐるなんてことは、いかほど合理化してみても、むごたらしいことにかはりない。犠牲なく一日も生きることはできないのだ。僕の自叙傳はおほむね、凡庸な一人の矮人(せひくおとこ)が多くの同類のあひだに挟まつて、不意打ちな『死』の訪れるまでを、どうやつてお茶をにごし、目をふさぎ、耳をふさぎ、どうやつて真相と当面するのを避けて、じぶんたちの別な神、別な哲学、別な思想で、どん帳芝居にうつつをぬかしたかといふこととなるのだ。(金子光晴『人間の悲劇』1954年)


この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。(金子光晴、79歳 死の前年(吉行淳之介対談集『やわらかい話』より)