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2023年3月13日月曜日

富と権力とメディアを持つ世界資本主義独裁者たちに対するコモンティストの抵抗

 

例えば、この1年のあいだワクチンと宇露紛争に関して、私がツイッターにて観察したなかで「最も優れた」情報提供者と感じるJ Sato(UC Berkeley Finance Diploma、戦略コンサルタント佐藤純氏)はこう言っている。




《富と権力とメディアを持つ者たちが、世界同時共産革命を進めている》ーーこの発言は私には容認し難いのだが、さてどうしたものか。


何よりもまず「共産主義」という表現の捉え方は、佐藤氏のような優れた人でさえこうなのだな、と溜息が出てしまうのだ。


おそらくは「マルクスの死」が通念となった以降の最もすぐれて勉強に励んだ方の一人なのだろう。


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することである。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。

Je ne comprends pas ce que les gens veulent dire quand ils prétendent que Marx s'est trompé. Et encore moins quand on dit que Marx est mort. Il y a des tâches urgentes aujourd'hui: il nous faut analyser ce qu'est le marché mondial, quelles sont ses transformations. Et pour ça, il faut passer par Marx:(ドゥルーズ「思い出すこと」死の2年前のインタビュー、1993年




佐藤氏の使う「共産主義」はボルシェヴィズムのことであり、エリートによる独裁のことである。


マルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョア階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えました。それに対して、マルクスは「プロレタリア独裁」を主張しました。それは「プロレタリアートの解放が人類の解放である」がゆえに、プロレタリアートの特殊意志が一般的たりうるということを意味しています。


しかし、マルクスはその具体的な内容については何も語らなかったのです。しかし、そこに、それならプロレタリア階級の「真の意志」は、どのように代表されるのかという問題が出てくるはずです。その場合、晩年エンゲルスやカウツキーは、議会制をとっていました。


それに対して、レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考えを出しました。したがって、共産党はプラトンのいうような哲学者=王ということになります。このレーニンの考え(ボルシェヴィズム)が、俗に知られているマルクス主義です。こうして、「プロレタリア独裁」は「党独裁」、さらに「スターリン独裁」ということに帰結します。


しかし、それはスターリンの誤りということではすみません。それは実質的には官僚の支配なのですから。さらに、それは、「真の意志」を誰がいかにして代表するかという問題にかんする、一つの考え方の帰結ですから。さらに、それは「民主主義的」でないとはいえないからです。


シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。


《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない》 。


実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年) 



他方、後期マルクスにとっての「共産主義者」とは、自由かつアソシエートする労働者たちであり、先の動画におけるエリートの独裁に対して連帯して反抗するオランダ農民たちがその可能なる姿、少なくともその雛型のひとつでありうる。


自由でアソシエートした労働への変容[freien und assoziierten Arbeit verwandelt]〔・・・〕

もし協同組合的生産 [genossenschaftliche Produktion]が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度[kapitalistische System] にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 [Gesamtheit der Genossenschaften] が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー [beständigen Anarchie]と周期的変動 [periodisch wiederkehrenden Konvulsionen]を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、可能なるコミュニズム [„unmögliche“ Kommunismus]以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)



《富と権力とメディアを持つ者たちが、世界同時共産革命を進めている》ーーこれは「富と権力とメディアを持つ世界資本主義ファシストに対して自由にアソシエートした可能なるコミュニストたちの抵抗」と言い直したいところである。

とはいえ、ほとんどの人は「共産主義者」あるいは「コミュニスト」という偏見だらけで悪いイメージがとことん染み付いている言葉がいやだろうから、ここでは「コモンティスト」と彼らを呼んでおこう。


マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(アントニオ・ネグリへのインタビュー The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



実際のところ呼び方はどうでもいいのである。

とはいえ、である。《富と権力とメディアを持つ者たちが、世界同時共産革命を進めている》とはあまりにもいただけなくーー少なくとも私にとってーー、しばらく考え込んでしまった。