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2023年5月20日土曜日

人は議論に勝てないとき、レッテル貼りして中傷する

 

ある意図があって検索していると、奥山真司氏が一年前、ミアシャイマーを引用しているに偶然行き当たった。出典は不明だが、彼はミアシャイマーの『大国政治の悲劇』The Tragedy of Great Power Politics, 2001の翻訳者だから信用してよいだろう、《誰かがあなたのことをレッテル貼りして呼ぶということは、それは主に彼らが議論の中身、つまり事実やロジックという面であなたに勝てないからだ》というのはナルホドと思わせる。


Okuyama, Masashi ┃奥山真司

@masatheman Apr 24, 2022

誰かがあなたのことをレッテル貼りして呼ぶということは、それは主に彼らが議論の中身、つまり事実やロジックという面であなたに勝てないからだ。


私自身は、人々が議論を仕掛けてきたときに議論の中身で勝負できない場合はレッテル貼りをしてくるものだと考えている。


(ジョン・ミアシャイマー)

その最近の例は、オーストラリアの元首相であるケヴィン・ラッドだ。彼は私のことを「右翼だ」と呼んだのだが、(ネオコンの論者の代表格である)ビル・クリストルは、過去に私のことを「左翼」と呼んでいる。


(同上)

私は自分のことを「国際関係論の理論家」だと定義している。


私は実際に、自分の国際政治に関する見方というのは、左翼や右翼というイデオロギーとは関係ないと考えている。


(同上)

あなたもご存知のように、私はリアリストである。そしてリアリズムというのは、実際は左翼や右翼という見方もできるものだ。


というのは、リアリズムというのは世界を理解する際に必要となる特定の理論のまとまりだからだ。


(同上)




もっともこのミアシャイマーの発言に対する私の感想は、「通俗道徳」あるいは「世間知」としてのナルホドという意味であって、その世間知の彼岸には言語そのものがレッテルではないかという問いがある。だがこれを言い出したら通常の議論など不可能になってしまう。その意味での通俗道徳ーー悪い意味ではないーーである。


……………


彼岸的思考の、例えばニーチェはこう言っている。



◼️概念の形成

なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなる。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。


一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)



要するに「木の葉」自体がレッテルである。「私」だってレッテルである。



一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命令する者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになる。しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、意志するということに関してまつわりついてきたのである。

insofern wir im gegebenen Falle zugleich die Befehlenden und Gehorchenden sind, und als Gehorchende die Gefuehle des Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens, Bewegens kennen, welche sofort nach dem Akte des Willens zu beginnen pflegen;insofern wir andererseits die Gewohnheit haben, uns ueber diese Zweiheit vermoege des synthetischen Begriffs "ich" hinwegzusetzen, hinwegzutaeuschen, hat sich an das Wollen noch eine ganze Kette von irrthuemlichen Schluessen und folglich von falschen Werthschaetzungen des Willens selbst angehaengt, - dergestalt, dass der Wollende mit gutem Glauben glaubt, Wollen genuege zur Aktion.

(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番、1886年)



ニーチェは既に最初期に言語はレトリックだと言っている。


言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)


これは言語はレッテルだと言い換えてもよいだろう。


別の言い方なら、言語はフェティッシュである。



しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)



このクリスティヴァの「言語はフェティッシュ」は、ラカンや柄谷がマルクスに依拠しつつ示した観点からもそう言える。


人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)



なお、ラカンやクリスティヴァと親しく、かつ優れたニーチェ読みだったロラン・バルトは、《言語とは本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel](『明るい部屋』1980年)と言っている。究極的にはここに行き着くのである。