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2023年5月30日火曜日

そうか、家父長制回帰じゃなく伝統回帰か

 

そうか、プーチンは家父長制とは直接には言ってないね、これはシツレイした。でも伝統を守る云々のたぐいは言ってるよ、伝統回帰だな。

でも伝統にはいろんな伝統があるからな、そこが厄介なんだよ。



➡︎動画


ひょっとしてハンターバイデンの小児性愛だって、伝統回帰じゃないかね。


東インドのある地方では、思春期以前の結婚や同棲生活が、いまでも珍しくない。八十歳を越したレプチャ族の長老たちは八歳の少女と交接するが、誰もべつだん奇異とは感じないらしい。ダンテがベアトリーチェと熱烈な恋をしたとき、彼女はまだ九歳の才気あふれる少女だった。深紅の衣裳や宝石で身を飾り、薄化粧をほどこした愛らしい少女だった。これは一二七四年にフィレンツェでひらかれた楽しい五月のある内輪の宴での出来事だ。またペトラルカがロリーンに熱狂的な恋をしたとき、彼女は花粉を吹きちらす風のなかを走りまわる十二歳の金髪のニンフェットで、ヴォクルーズの連丘から眺めた姿は、さながら美しい平原に舞い踊る一輪の花だった。(ナボコフ『ロリータ』)



他にもフーコーの親友のポール・ヴェーヌ Paul Veyne(アナール派のローマ史研究家)は、古代ローマのセクシャリティをテーマにしたコレージュ・ド・フランスの講義1977-78でこう言ってるよ。すなわち、後期ローマ帝国ではほとんど何でも許され、近親相姦さえ愉快な仲間たちのあいだで屁をひる程度にものだと考えられていた。これも伝統回帰のひとつじゃないかい?



もっともこれは簡単に言い過ぎで、ヴェーヌは古代ローマで唯一醜聞として拒絶されたことは、受動性(自らの身体的要求になすがままになること)だ、とも言っている。


ここからフーコーの次の問いが生まれている、


古代社会における自由な男は、どんな主要な禁止にも出会うことなしに、その活動を展開しえた筈なのに、なぜ性的実践の強い問題化の根があった。なぜ、身体、妻、少年、そして真理において、快楽の実践が問題化されたのか?

l'homme libre, dans les sociétés anciennes, ait pu déployer son activité sans rencontrer de prohibition majeure ont été justement les lieux d'une problématisation intense de la pratique sexuelle. Pourquoi est-ce là, à propos du corps, à propos de l'épouse, à propos des garçons et de la vérité, que la pratique des plaisirs a fait question ? (フーコー『快楽の活用(Usage des plaisirs)』1984年)


こうしてフーコーの自己陶冶論や節制論が展開されるのだが[参照]、今はその話題ではないのでもうやめとくよ。


話を戻せば、プーチンの伝統回帰は、結局、キリスト教的規範回帰だよ。この別名が家父長制回帰さ。