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2023年7月31日月曜日

不幸にも「楽観論の愚かしさ」に洗脳された世代の学者たち



前にも一度掲げたが、柄谷の『力と交換様式』(2022年)の次の文は、上の『世界史の構造』の核心図の簡潔な説明として読める。

第二次大戦後の世界は全体として、アメリカのヘゲモニーの下で“自由主義”的であったといえる。それは一九世紀半ば、世界経済がイギリスのヘゲモニー下で“自由主義”的であった時期に似ている。しかし、このような世界体制は、一九七〇年代になって揺らぎ始めた。一つには、敗戦国であったドイツや日本の経済的発展とともに、アメリカの圧倒的ヘゲモニーが失われたからである。


しかし、一般に注目されたのは、一九九一年にソ連邦が崩壊し、それとともに、「第二世界」としての社会主義圏が消滅するにいたったことのほうである。このことは、「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)として騒がれた。愚かしい議論である。このような出来事はむしろ、「歴史の反復」を示すものであったからだ。


そのことを端的に示すのは、一九八〇年代に、それまで「第一世界」を統率し保護する超大国とし“自由主義”を維持してきた米国が、それを放棄し“新自由主義”を唱え始めたことである。つまり、ソ連の「終焉」より前に、資本主義経済のヘゲモンとしての米国の「終焉」が生じたのだ。それは、一九世紀後半にイギリスが産業資本の独占的地位を失い、それまでの“自由主義” を放棄したこと、 すなわち、 “帝国主義”に転化したことと類似する。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)




ところで、ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』の導入部分には、この柄谷行人の言っていることとほとんど同じことが書かれている、フクヤマの「歴史の終わり」に触れつつ、冷戦終了に伴い平和が訪れるのは間違っている、と。さらにはドイツと日本に触れつつ、米軍がヨーロッパや日本に駐留するのは、危険なライバルを恐れるためだと(中米の覇権争いについても既にこの書が上梓された2001年の時点で予測している)。


Many in the West seem to believe that "perpetual peace" among the great powers is finally at hand. (…) In the words of one famous author, the end of the Cold War has brought us to the "the end of history." (…) 

Alas, the claim that security competition and war between the great powers have been purged from the international system is wrong. (…) 


Consider, for example, that even though the Soviet threat has disappeared, the United States still maintains about one hundred thousand troops in Europe and roughly the same number in Northeast Asia. It does so because it recognizes that dangerous rivalries would probably emerge among the major powers in these regions if U.S. troops were withdrawn. Moreover, almost every European state, including the United Kingdom and France, still harbors deep-seated, albeit muted, fears that a Germany unchecked by American power might behave aggressively; fear of Japan in Northeast Asia is probably even more profound, and it is certainly more frequently expressed. Finally, the possibility of a clash between China and the United States over Taiwan is hardly remote. This is not to say that such a war is likely, but the possibility reminds us that the threat of great-power war has not disappeared. (John J. Mearsheimer, The tragedy of Great Power politics, Introduction, 2001)



ミアシャイマーは1990年の冷戦の終焉に衝撃を受けて、10年かかってこの書を書いたそうだが、柄谷の1990年以降の仕事も同様だ。その最初の結実が、カントの「永遠平和」と後期マルクスの「可能なる共産主義」ーーレーニンの共産主義とはまったく異なるーーを中心に思考した2001年の『トランスクリティーク』、次の大きな結実が2010年の『世界史の構造』、そして2022年に『力と交換様式』が生まれた。この二人は世界の構造に対してまったく異なった切り口でメスを入れているにもかかわらず、ともに冷戦の終わりの後の、「巷間の楽観論の愚かしさ」に対して強い批判をしつつこの30年のあいだ仕事をしてきた人物だ。1941年生まれの柄谷、1947年生まれのミアシャイマーである。


冷戦終了後の世代ーー仮に1990年に18歳以下の世代としようーーである現在日本の中堅の国際政治学者は、この「楽観論の愚かしさ」に不幸にも洗脳された連中がほとんどに見える。少なくともこの一年半、連中の大半は米ネオコンの寝言を鵜呑みして反復しているだけだ、「ルールに基づく国際秩序」のたぐいの。


ある意味でとてもマジメにーー、


教育は常に、シニフィアンを送り届ける過程、つまり教師から生徒へと、知を受け渡す過程である。この受け渡しは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。

これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は大他者のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この大他者に陽性転移した条件の下に、この大他者によって与えられた知に同一化する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility. 2011年)

コミュニケーションとしての言語の機能。この機能で重要なのは、メッセージというよりも、むしろ送り手と受け手の関係である。この関係によって、メッセージがどのように受け取られるか、あるいは受け取られないかが決まり、より具体的には、メッセージが「取り込まれ」、保持されるか、あるいは送り手の外に戻されるかが決まる。

教育はこの典型的な例である。人は「学ぶ」、つまり、肯定的な伝達関係においてシニフィアンを取り込むのである。これは、実際に教えられることの正確さや不正確さよりも、はるかに決定的な重要性を持っている。その結果、すべての教育は、洗脳の機会となる危険性をはらんでいる[all education runs the risk of turning into an opportunity for indoctrination.](Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)