このブログを検索

2023年8月29日火曜日

つばきあぶらのにおいがする

 


ろうそくがともされた 谷川俊太郎


ろうそくがともされて

いまがむかしのよるにもどった

そよかぜはたちどまり

あおぞらはねむりこんでいる


くらやみがひそひそささやく

ときどきくすっとわらったりする

こゆびがふわふわのなにかにさわる

おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる


きもちがのびたりちぢんだりして

つばきあぶらのにおいがする

ぬかれたかたなのにおいがする

たいこのおととこどものうたごえ


 とてんととてん とっとっと

 とてとてとてと とんつくとん

 かわはゆったりうみにだかれて

 おかはそらへとせのびする


ろうそくがともされて

ここがうみのむこうのくにになった

まっしろいとらをつれて

じょおうがかいだんをおりてくる


いちねん じゅうねん ひゃくねん せんねん

どこまでもまがりくねってみちはつづいて

ひとあしひとあしあるいてゆくと

からだのそこからたのしさがわく




ーー東日本大震災の直後に書かれた詩


『ろうそくの炎がささやく言葉』所収 管啓次郎・野崎歓 編 2011/8/8


……………



彼は立止まった。目的のない散歩だったが、煙草が無くなっているのを思い出して、また歩き出した。近所の商店街に、夜店が立並んでいるようにおもえたが、それは錯覚だった。アセチレン燈をともした夜店とか、祭りの日の神社の境内に並んだ見世物小屋とか、そのような幻覚がしきりと彼を襲った。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)






長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

 

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年)



……………………



火は人を呼ぶ。盛大な焚き火は人々を集める。人々は火を囲んで焔が一時輝き、思い切り背伸びするのをみつめる。かと思うと、焔は身をかがめて暗くなり、いっとき薪にまつわって、はらはらさせる。火を囲む人々は遠い過去の思い出に誘われがちだ。


私は思い出す、戦後の大阪駅前を。敗戦後何年か、夏でさえ、南側の広場にはいつ行っても焚き火があって人々が群がり、待ち合わせ場所にも使われていた。私も長い時間をその焚き火の側で過ごした記憶がある。時代の過酷さを忘れて人々はいっとき過去を思い出す表情になっていた。


岐阜の長良川の鵜飼の火。夏の湿った夜気。暗闇ににじむ焔の船が近づいてくる。小さく、あくまで小さく。時に燃え上がる。火の粉が散る。焔の反映は左右に流れて、水面にこぼした光のインクの一滴だ。


しかし、他の何よりも思い出を誘うのは火、ことに蝋燭の火だ。間違いない。「ロウソクは一本でいい。その淡い淡い光こそ/ふさわしいだろう、やさしい迎えだろう/亡霊たちの来る時にはーー愛の亡霊が。/……今宵の部屋は/あまり明るくてはいけない。深い夢の心地/すべてを受け入れる気持、淡い光――/この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る/亡霊たちを招くためにーー愛の亡霊を」(カヴァフィス)。終生独身のこの詩人の書斎の照明は最後まで蝋燭一本だったという。特にお気に入りの友が来た時は二本、稀には三本を灯したとか。(中井久夫「焔とこころ、炎と人類」『日時計の影』所収)




祈り カヴァフィス  中井久夫訳


水夫が一人溺れて沖に沈んだ

気づかぬ母は聖母イコンの前にいって

背の高い蝋燭に火を灯した

はやく帰ってきますように 海が凪ぎますようにと

祈り 風の音にも耳をそばだてた。


母が祈りこいねがうその間

母の待つ子の永久に帰らぬを知るイコンは

じっと聞いていた、悲しげに荘重に。



「こんなに濡れていても焚火ができますの?」

「白樺の皮で燃しつけるんです。油があるので濡れていてもよく燃えるんですよ。私、焚木を集めますから、白樺の皮を沢山お集め下さい」

一面に羊歯や八つ手の葉のような草の生い繁った暗い森の中に入って焚火の材料を集めた。


皆は別れ別れになったが、KさんやSさんの巻煙草の先が吸うたびに赤く見えるのでそのいる所が知れた。


白樺の古い皮が切れて、その端を外側に反らしている、それを手頼りに剥ぐのだ。時々Kさんの枯枝を折る音が静かな森の中に響いた。〔・・・〕


皆はまた砂地へ出た。

白樺の皮へ火をつけると濡れたまま、カンテラの油煙のような真黒な煙を立てて、ボウボウ燃えた。Kさんは小枝からだんだんに大きい枝をくべてたちまち燃しつけてしまった。その辺が急に明るくなった。それが前の小鳥島の森にまで映った。〔・・・〕

先刻から、小鳥島で梟が鳴いていた。「五郎助」と言って、暫く間を措いて、「奉公」と鳴く。


焚火も下火になった。Kさんは懐中時計を出して見た。

「何時?」

「十一時過ぎましたよ」

「もう帰りましょうか」と妻が言った。


Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水に遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面に結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかえして消してしまった。


舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声がだんだん遠くなった。(志賀直哉「焚火」)




…………………



 世には二種屬の人間がある。一方の種屬の者は、いつもムダな死金を使ひ、時間を空費し、無益に精力を消耗して、人生を虚妄の悔恨に終つてしまふ。彼等は「人生の浪費者」である。反對に他の者は、物質上にも精神上にも、巧みにそれの最高能率を利用して、人生を最も有意義に處世する。彼等は「人生の所得者」である。


 ところでこの前者の範疇は僕であり、後者の典型は室生犀星である。室生犀星は、自ら風流人を以て任じ、且つ風流の幽玄な哲理をよく説いてる。僕は風流について深く知らない。だがもし――或る人が利休に關して述べたやうに――風流といふことの生活的レアリチイが、經濟學的利用價値に於ける美の創造(廢物利用としての簡易美的生活)と言ふことになるとしたら、わが室生犀星の生活樣式などは、全く風流の極意を捉へたものである。物質上でも、時間上でも、室生ほど人生をよく利用し、一分のムダもなく生活してゐる人間はない。この意味で、彼の人生は全くエコノミカルである。しかしこの場合でのエコノミストは、世俗のいはゆる「しまり家」とは意味がちがふ。反對に彼は享樂家であり、人生の快樂すべきこと、遊戲すべきこと、美を樂しむべきことをよく知つてる。その上金づかひも鷹揚であり、友人への義理も厚く、ケチなところは少しもない。それで居て、彼の使ふすべての金が、一錢のムダもなく利用されてる。つまり彼は、決して「死金」を使はないのである。しかもそれは意識的に、彼の經濟學的觀念――彼にはそんな觀念が少しもない――でするのでなく、天性の生れついた本能から、無意識の動物叡智でやつてるのである。


 昔、ひどく窮乏してゐた書生時代から、彼はさういふやり方で生活して居た。その頃本郷の或る家に間借りして居た彼は、三度の食事にも缺乏するほどの貧しい身分で、金一錢の餘裕を見つけ、どこかで一本の西洋蝋燭を買つて來る。そして清潔によく掃除をした、何一物もない部屋の中で、それを机の上に立てて置くのである。するとその白い蝋燭が、簡素で明淨な部屋と調和し、いかにも貴重で藝術的なものに見えるのである。……

(萩原朔太郎「所得人 室生犀星」)