このブログを検索

2023年8月21日月曜日

表象のみを問題にしている限り、事態の表面にとどまっている

 


前回から引き続くが、『グラディーヴァ』においての「抑圧」をめぐる理論的記述で、何よりもまず重要なのは次の二文ではないだろうか。


印象や表象のみを問題にしている限り、われわれは事態の表面にとどまる。

[Wir bleiben an der Oberfläche, so lange wir nur von Erinnerungen und Vorstellungen handeln.](フロイト『W.イェンゼンの《グラディーヴァ》における妄想と夢』1907年)

これらの精神障害の個人的決定要因は、欲動的生の一部の抑制と、抑制された欲動の代わりをする表象の抑圧である[als individuelle Bedingung der psychischen Störung die Unterdrückung eines Stückes des Trieblebens und die Verdrängung der Vorstellungen, durch die der unterdrückte Trieb vertreten ist ](フロイト『W.イェンゼンの《グラディーヴァ》における妄想と夢』1907年)


ーー上でフロイトが記している「欲動的生の抑制/表象の抑圧」の二項を後年の表現に代替すれば、「抑圧された欲動/抑圧された表象」において、抑圧された表象だけを問題にするのは表面的だということだ。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

抑圧された表象[verdrängten Vorstellung](フロイト『抑圧』1915年)


ーー《今後我々は、抑圧の症例を述べるとき、抑圧の結果として表象になるものと、欲動エネルギーが表象に結びつくようになるものとを分けて追跡しなければならない[Wir werden von nun an, wenn wir einen Fall von Verdrängung beschreiben, gesondert verfolgen müssen, was durch die Verdrängung aus der Vorstellung und was aus der an ihr haftenden Triebenergie geworden ist. ]》(フロイト『抑圧』1915年)


……………


抑圧された表象は「抑圧された欲望」と等価である。


ここでラカンを導入して確認すれば、欲望は欲動(享楽)のシニフィアン化つまり表象化である。


原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)


つまり欲望は欲動の表象化である。


享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


要するに「抑圧された欲望」のみを問題にしていては表面的にとどまるということを、フロイトは『グラディーヴァ』で事実上、既に言っているのである。「抑圧された欲動」を追求しなければならないと。


心的生における抑圧された願望[im Seelenleben verdrängte Wünsche](フロイト『夢解釈』第5章、1900年)

フロイト用語の願望をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)


欲望は前意識のみにかかわる。


無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient](Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)


つまり自我の領野にとどまる。


私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づける[Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen,](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


他方、抑圧された欲動とは、もちろん《抑圧されたエス[verdrängte Es]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章)であり、これが前意識とは異なる本来の無意識である。


一般にはこのあたりがいまだもってまったく理解されていない。例えばフェミニストたちは欲望ばかり問題にして欲動には目を向けないできた。



驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである[It is striking how little attention has been paid to the drive and to sexuality in contemporary gender studies.](ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年)

ジェンダー理論は性差からセクシャリティを取り除いてしまった。ジェンダー理論家は性的実践を語り続けながら、性を構成するものへの問いを止めた[Gender theory [...] it removed sexuality from sexual difference. While gender theorists continued to speak of sexual practices, they ceased to inquire into what constituted the sexual](ジョアン・コプチェク Joan Copjec "Sexual Difference" 2012年)


フロイトラカン派観点からは、フェミニズムはいまだもって、快原理内の欲望にとどまった浅はかな理論を展開し続けているだけである。


ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている[suspendue dans la lumière d'une béance]》(E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う[Cette béance est celle que le désir rencontre aux limites que lui impose le principe dit ironiquement du plaisir]》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している[C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. ](J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994)