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2023年11月30日木曜日

私を泣かしたからには蓮實重彦を許さない

 

前回の「より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ」から引き継いで言えば、蓮實重彦は最近の世代の人たちにはひどく「傲慢」に思えるんじゃないかね、おそらくそのせいで「孤立」してるんじゃないか。そして自らその孤立を楽しんでいるのかも、ひょっとして「「バーカ!」といっておけばすむ事態が、あまりに多すぎはしまいか」と呟きつつ。

例えば「ちくま」連載の蓮實重彦「些事のこだわり」がネットにアップされているのだが、ツイッターで検索する限り、ほとんど誰も触れていない。これはかつては柄谷行人と並び称された「時代を先導する批評家」としてはひどく奇妙だが、蓮實は少なくとも現在のツイッター社交界ではひどく不向きな存在であることを証していると言えるのではないか。


私もこれらのエッセイのネット掲載をごくごく最近知ったのだが、目次を眺めるだけでも「愉快」になれるんだがね、そのシニカルとユーモアの混淆に。



連載目次

コーヒーの豆は遍在していながらドリップ・フィルターが近くに見あたらぬと、不意に親しい女性のお尻が見えてきたりするのはなぜか

二十一世紀の日本の首都に於ける超高層ビルの林立はその国の凋落を予言しているように思えてならない

重要なのは「マイナ・保険証 一本化」への賛否などではなく「マイナ」という醜悪な語彙を口にせずにおくことだ

「科学技術」という言葉を耳にしたら、およそいい加減な話だと確信して、黙って聞き流せばよい

またぞろ大江健三郎の「にがいコオフィ」を論じることになるが、間違っても二番煎とはならぬので安心されたい

パソコンの故障は、この電子装置への感性的な執着をより強固なものとしてくれたのだろうか

この世には、どうやら珈琲にたっぷりと砂糖を入れねば気のすまぬ世代というものが存在しているようだ

政府は、いざという瞬間に、国民の生命を防衛しようとする意志などこれっぽっちも持ってはいないと判断せざるをえない

アカデミー賞という田舎者たちの年中行事につき合うことは、いい加減にやめようではないか

理由もなく孤児だと思ってしまった、ごく鄭重な少年との出会いに導かれて

「バーカ!」といっておけばすむ事態が、あまりに多すぎはしまいか

ノーベル賞が「些事」へと堕してしまう悲惨さについて

「知恵の輪熊」の可愛らしさは誰にもわかるまい

「頑張ろう」などと口にするのはそろそろ止めにすべきではなかろうか

マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて

オリンピックなどやりたい奴が勝手にやればよろしい



実はこれらをすべてPDFにしつつ線を引きながら嘗めるようにして読んだ。いくつかは退屈なものもないではないが、おおむねこよなく「愉快」になれた。


特に直近の、川喜多和子の「お尻の割れ目」の話はきわめて秀逸で、激しい羨望とともに強く記憶に刻印されたね。


彼女は、不意にあっというなり、あの箱の中にあったはずだといいながら、書類棚に立てかけられていた梯子を登りかけた。その瞬間、着ていたドレスの裏のファスナーが引かれてはおらず、背中が丸見えであることに気づいたわたくしは、その背後に貼り付くようにして全身で女の素肌の背中を隠し、ファスナーをあげようとしたところ、何かに引っかかっていたものか、それは一向に動こうともしない。漸くにして事態の緊急性を察知した彼女は、ふと振り返りながら、ファスナーが動かなければいったん勢いよく下まで降ろしてから改めて引き上げてみてはどうかという。そこで、左手を彼女の胴にあて、指示にしたがってファスナーをいったん下まで降ろしたところ、薄手の下着にほとんど蔽われてはいないその裸のお尻の割れ目が、いとも鮮やかにこちらの瞳を不意討ちしたのである。〔・・・〕


ここではむしろ、コーヒー好きを自認している多くの男女が、豆については律儀にその有無を確かめていながら、ドリップ・フィルターに関してはその身近な存在を確かめようともせず、いざという瞬間に慌てて探し始めるのはなぜか、と問うべきかも知れぬ。実際、川喜多和子は、かりにドリップ・フィルターが身近にあったなら、その素肌のお尻をわざわざわたくしに見せずにすんだはずなのである。ことによると、男女間の友愛というものは、セクハラに限りなく近い関係を維持していることで、より親しく深いものとなるものかもしれぬといういささか危うげな教訓を、ここでのいささか強引な結論とすべきかもしれない。その結論を、いまは鎌倉の墓に眠る川喜多和子の霊に向けて、深い友愛の念をこめて送り届けたいと思う。






さらに言えばーー先ほどカギ括弧つきながら「愉快」と記した後すぐさま逆のことを言うがーー、『些事のこだわり』の文章群には、比較的初期の『反=日本語論』以外はほとんど自らのことを書かなかった彼、あの懐かしい『反=日本語論』の蓮實重彦が「後期高齢者」の年齢になって復活している。あるいは昨年若くして死んでしまった青山真治の「某日、昼に届いた『文學界』掲載の『ジョン・フォード論 樹木』を一気に読む。最初のページから涙腺が緩み始め、予想通り『静かなる男』を経て『荒野の女たち』のくだりに差し掛かって以降、事情を知らぬまま隣にいた女優に『なんで嗚咽?』と驚かれた。これは自分でもなんだかわからないのだが、おそらく重臣くんのことが深く関係している気がする。ひとり息子を失った方にしか書けない文章だと思われたのだ」(「青山真治をみだりに追悼せずにおくために/蓮實重彦」 新潮 2022年6月10日より)の《ひとり息子を失った方にしか書けない文章》さえ想起させ、泣かせるのである。


蓮實重彦はかつて青山真治とのゴダールの『愛の世紀』(原題:愛の賛歌 Éloge de l'amour、2001)をめぐる対談で「私を泣かしたからにはゴダールを許さない」と言ったが、この伝で私もそう言わせてもらおう、「私を泣かしたからには蓮實重彦を許さない」と。