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2023年11月5日日曜日

同情が少しもわかず、セミが死んだという気がしただけ

 

ふと安岡章太郎の言葉を朧げに思い出し、どこにあったかと1時間あまりページを繰って探したがやはりあった。ここに備忘しておく。

ところで、あれは十月末頃のことだ。そのときも、僕は石山の部屋で、旅行鞄をドラムの代りに、どかんどかんと叩きながら、大声で歌っていると突然、胸の奥にビリッと電気の走るような痛みを覚えた。と同時に、いいようのない不安が心の何処かをかすめて通った。僕は一瞬、罰が当ったと思った。無神論者で現実主義者であるはずの僕が、どうしてそんなことを思うのか、それに一体何の罰が当るというのだ?  それは自分でもまったくわからない。ただ、思い当るのは昨年八月、自分が入院した翌日か翌々日かに、同年兵の大部分が動員で南方に移動し、レイテ島でほとんど全滅させられたということ、それに孫呉、旅順、奉天などの陸軍病院で別れてきた病兵仲間の連中が大部分、いまごろはシベリアへつれて行かれて、雪と氷に閉じこめられているだろうというようなことだ。

あの頃、不公平ということ、或いは他人の不幸ということについて、僕は完全に心がマヒしていた。実際、戦争による被害は決して全国民一様のものではなかった。なるほど敗戦のショックは誰もが同じように受けたとしても、戦争体験の内容は各個人によって千差万別である。空襲のことだけをとってみても、幸運な人は都会地に居坐ったまま何の被害もなかったが、不運な人は疎開した先きざきで何度も罹災している。まるでそれは"空襲"を背負って歩いているみたいに思われたものだ。そして政府は勿論、保険会社も、罹災者には何らの補償をしなかった。こうした不公平に対して、不服を唱える人がほとんどいなかったのは、いま想うと不思議なほどである。つまり、それほど戦争中の国民は不幸に慣れ切っていたということであろうか。無論、 一番不幸なのは黙って死んで行った人たちで、それを考えれば生き残った者は、不平をいう気にもなれなかったのであろう。僕自身は、死んで行く者に対しても、心は閉ざしたまま何も想うところがなかった。 旅順の病院で、僕と藁蒲団を並べて隣りに寝ていたS一等兵は、三十代半ばの召集兵で、妻子がいた。 乃木大将のような顔をしていて、性格も寡黙で謹厳だったから、ふだん僕はこのS一等兵とはロクに口もきいて貰えなかった。ところが或る日、国許から手紙が届くと、Sは急に顔色をかえて、僕に訴えはじめた。

「女房が死んだ。前から体は弱かったのだがね。おれがこうして兵隊にとられてからは、仕事でムリしたんだろう。とうとう死んじまった……。 女房の奴も可哀そうだが、子供たちはどうしているだろうな、年はまだ三つに二つだよ。おッかアがいなくなったのに、あの子たちはどうやって暮らして行くか……」

僕は、それにどうこたえたか、覚えていない。第一、同情が少しもわかなかった。Sは、室長のM曹長にもこのことを訴えたらしい。しかし、M曹長にしたって、手のほどこしようもなかったはずだ。「よくあることさ、とにかく早く体を治して、お国にシッカリ御奉公するように」とでも言ったのではないか。そうだとしても、僕にはM曹長の冷淡さを責めることはできない。何百万いるかしれない兵隊の一人一人が国許の家族にどんな想いをさせているか、これは人間の想像力の及ぶところではないからだ。その晩、Sは夜通し泣いているようだった。僕が目を覚すと、そのたびに隣りで啜り上げる声がきこえた。僕は、うるさいな、と思うだけだった。女房に死なれるということ、そして自分の子供たちが孤児同様の身の上になって残されているのに面倒一つ見てやれないということ、それがどんな心持のものか、僕には一向理解する手掛かりもなかったからだ。S一等兵は日増しに憔悴しはじめた。そして、一と月ばかりたつと、担送患者ということになって個室に移された。不精ヒゲが白毛だらけになって、ますます乃木大将に似てきたSの顔を見送りながら、僕はこれでやっとSの夜泣きからも解放されたという気がするばかりだった。それから半月とたたないうちに、Sの病状は急激に悪化し、M曹長が病室を代表して見舞いに行くと、その翌日かにSは死んだ。さすがにM曹長は、

「可哀相だったな、最後まで子供のことを心配していた」

と言ったが、僕はただ秋になってセミが死んだというような気がしただけだ。 Sの子供がどうなったか、無論それは誰も知らない。

(安岡章太郎『僕の昭和史Ⅱ』)