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2024年7月26日金曜日

けやきの木の小路をよこぎる女のひとのまたのはこび

 

超自我かい?超自我は文字通り、自我を超えてアナタを支配するものだよ。究極的には超自我はキミの股のあいだにあるものだ、荷風起源の「蚊居肢」ってのは実は超自我の別名でもあるんだーー《スカートの内またねらふ藪蚊哉 (『断腸亭日乗』昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六)ーー。最近は「蚊居」にしたほうがいっそうわかりやすかったかといくらか悔やんでいるのだけれど。


ここで厳密に示そう。


フロイトは、超自我はエスのリビドーの最初の対象の自我への取り入れだと言っている。

超自我は外界の代理であると同時にエスの代理である。超自我は、エスのリビドー蠢動の最初の対象、つまり育ての親の自我への取り入れである[Dies Über-Ich ist nämlich ebensosehr der Vertreter des Es wie der Außenwelt. Es ist dadurch entstanden, daß die ersten Objekte der libidinösen Regungen des Es, das Elternpaar, ins Ich introjiziert wurden](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


で、リビドーの最初の対象ってのは、母のマンコだ。それは次の三文からそう読める。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)

不安は対象の喪失への反応として現れる。…最も根源的不安(出生時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっているDas psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation.  (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


つまり超自我の核は喪われた母胎だ、別名《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben ]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)。これが原超自我だ。


メラニー・クラインは、超自我は母の乳房だと言っているがね。


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast] (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)


これは1950年当時においては優れた洞察だったが、ーーというのは当時は超自我はエディプス的父のみだとの誤解が通説になっていたので(今でもトロい学者たちはそう思い込んでいるがね)ーー、とはいえメラニー・クラインはほんとうはもう少し突っ込むべきだったな、母の乳房から母胎へと。惜しまれるね。


もっともフロイトは『自我とエス』では母の乳房がリビドーの対象だと言っているからクラインの見解はその段階の読みとしては「正しい」。


非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。[Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


ーー対象備給[Objektbesetzung]とあるが、対象リビドーだ、《備給はリビドーに代替しうる [»Besetzung« durch »Libido« ersetzen]》(フロイト『無意識』1915年)。とはいえ母の乳房と言わずに母の身体が超自我の核とすべきだったね。そうしたらマンコも含まれるんだから。


僕なんか始終超自我の声が聞こえてくるよ、膝枕なんかしなくたって。

老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。(古井由吉「白い軒」『辻』)


さて前期ラカンは先のクラインを受け入れているがーー《母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我の効果に結びついている[Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN,]》(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)ーー太古の超自我とあるが、フロイトにおいて太古はエスなので注意、《「太古の遺伝」ということをいう場合には、普通はただエスのことを考えている[Wenn wir von »archaischer Erbschaft«sprechen, denken wir gewöhnlich nur an das Es ]》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)ーー、後のラカンはもう少し展開させている。


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


ーーまずこの二文から、「超自我は女なるもの」となる。


そしてここに次の発言を折り込めばどうなるか。

女なるものを"La"として示すことを許容する唯一のことは、「女なるものは存在しない」ということである。女なるものを許容する唯一のことは神のように子供を身籠ることである。La seule chose qui permette de la désigner comme La…  puisque je vous ai dit que « La femme » n'ex-sistait pas, …la seule chose qui permette de supposer La femme,  c'est que - comme Dieu - elle soit pondeuse. 


唯一、分析が我々に導く進展は、"La"の神話のすべては唯一の母から生じることだ。すなわちイヴから。子供を孕む固有の女たちである。

Seulement c'est là le progrès que l'analyse nous fait  aire, c'est de nous apercevoir qu'encore que le mythe la fasse toute sortir d'une seule mère  - à savoir d'EVE - ben il n'y a que des pondeuses particulières.   (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


つまり「超自我は女なるもの」とは「超自我は子供を孕む女」となる、したがって事実上、超自我は母胎だと言っていることになる。先に示したように、フロイトにおいて厳密には「超自我は喪われた母胎」だ。


超自我が死の欲動に関わるのはこのせいだよ。

メランコリーの場合、超自我が死の欲動の一種の集積所となるのはなぜなのか?[bei der Melancholie das Über-Ich zu einer Art Sammelstätte der Todestriebe werden kann? ](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


このクエッションマークは現代ラカン派においては一般化されて断定的に語られている。


死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

タナトスは超自我の別名である[Thanatos, which is another name for the superego ](ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2016)


「超自我は喪われた母胎」を基盤にすれば、この超自我が死の欲動に結びつくのは次の三文からそうなる。

以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)

母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年)


この放棄された子宮内生活、つまり喪われた子宮内生活の自我への取り入れが原超自我だ。フロイトは1921年の『集団心理学と自我の分析』でも超自我という語は使っていないがこの取り入れを強調している(フロイトが初めて超自我概念を公にしたのは1923年の『自我とエス』)。


放棄された対象あるいは喪われた対象との同一化、その対象の代理としての自我への取り入れは我々にとってもはや奇妙なことではない[Die Identifizierung mit dem aufgegebenen oder verlorenen Objekt zum Ersatz desselben, die Introjektion dieses Objekts ins Ich, ist für uns allerdings keine Neuheit mehr. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


以上、女はみな股のあいだに死の欲動の対象を抱えているんだ。僕なんか小股の切れ上がった女が歩いていると「歩く死の欲動」だと讃嘆して眺めることしきりだよ。


けやきの木の小路を

よこぎる女のひとの

またのはこびの

青白い

終りを


………


路ばたにマンダラゲが咲く


ーー西脇順三郎