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2024年11月18日月曜日

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リビドーはーーあくまでフロイトのリビドーで他の人がどう使っているのかはよく知らないが、ーー性欲動であり(たんに「欲動」とだけしてもよろしい)、ニーチェの力への意志だよ。


性欲動が心的生に表象される力を我々はリビドー、つまり性的要求と呼んでおり、それを飢えや力への意志等と類似したものと見なしている[die Kraft, mit welcher der Sexualtrieb im Seelenleben auftritt, Libido – sexuelles Verlangen – als etwas dem Hunger, dem Machtwillen u. dgl.](フロイト『精神分析のある難しさ』Eine Schwierigkeit der Psychoanalys、1917年)

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


ここではニーチェから二文だけ掲げよう。

すべての欲動の力は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...](ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

欲動、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿, 1882 - Frühjahr 1887)


ニーチェは二番目の文で、「Lüst」という語を使っているが、これがフロイトのリビドーだ。

リビドーはドイツ語において「Lust」 という語が唯一適切な語だが、残念なことに多義的であり、要求の感覚と同時に満足の感覚を呼ぶのにも使われる。Libido: Das einzig angemessene Wort der deutschen Sprache »Lust« ist leider vieldeutig und benennt ebensowohl die Empfindung des Bedürfnisses als die der Befriedigung.. (フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)


たんなる満足のほうは快原理内の「快」で、要求のほうは快原理の彼岸の欲動満足の「悦」だ、

反復強迫と直接的な悦的欲動満足 [lustvolle Triebbefriedigung]とは、緊密に結合しているように思われる。〔・・・〕反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 、一次的、かつ欲動的であるように思われる

Wiederholungszwang und direkte lustvolle Triebbefriedigung scheinen sich dabei zu intimer Gemeinsamkeit zu verschränken.(…) Wiederholungszwanges rechtfertigt, und dieser erscheint uns ursprünglicher, elementarer, triebhafter als das von ihm zur Seite geschobene Lustprinzip. (フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


で、ニーチェの悦、あるいは力への意志はーーこう言うと驚くかも知れないがーーマゾヒズムだよ、

痛みと悦は力への意志と関係する[Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  ](ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)


痛みと悦[Schmerz und Lust]あるが、これがフロイトのSchmerzlustであり、マゾヒズム=欲動=リビドーだ。

痛みのなかの悦は、マゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレに悦用語を使って次のようにある、

悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての痛みよりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦のなかに環をなしてめぐっている。――

was will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will sich, sie beisst in sich, des Ringes Wille ringt in ihr, ―(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)


これがマゾヒズムでなくて何だというんだ?



ラカンは次のように言っているが、フロイトのLustあるいはLibidoを享楽と読んでいるんだ。


フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](Lacan, S16, 15 Janvier 1969)


あるいは、《疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur]》(Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)


つまり、《我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する[ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance.]》 (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


さらに次の三文は同じことを言っている。

性的悦と自傷行為は隣り合った欲動である[Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. ](ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである[ L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même]  (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)

主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet (…)  le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)


上に記したことをまとめれば、Wille zur Macht = Lust (Schmerzlust) = Trieb = Masochismus = Libido = Jouissance となる。


これは世界的にまだ誰も言っていないがね、ニーチェを軸にして上の引用群を読めば、そうならざるを得ない。


フロイトというのは少し読み込むとニーチェのパクリばっかりだよ。


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, …dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年)



とはいえこの投稿は高いよ、世界初の明示化だからな。最低限一万ドルぐらいはつけてもいいと思うがな。博士論文程度だったらこれに味付けしたら一発だよ。ワカルカイ、お嬢さん向けに半額にしとくから送っとけよ。