これが最後のラカンである。
そしてこれが「恥なき21世紀」で引用した次の二文の意味だよ。少し異なった文脈で派生的に掲げたので説明不足だっただろうがね。
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)
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ラカンは父の名を終焉させた。それは、S(Ⱥ)というマテームの下でなされた。斜線引かれた大他者のシニフィアンである[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. …sous les espèces du mathème qu'on lit grand S de A barré, signifiant de l'Autre barré, ]〔・・・〕
これは大他者の不在、大他者は見せかけに過ぎないことを意味する[celle de l'inexistence de l'Autre. …que l'Autre n'est qu'un semblant. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas, 20/11/96)
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ここでの大他者は言語を意味する。
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大他者は父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)
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というわけで、大他者は存在しないとは言語は存在しないである。
で、ついでにS(Ⱥ)についても補足しておこう。
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大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ) ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)
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S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーー ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
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穴のシニフィアンとは欲動のシニフィアン、つまり享楽のシニフィアンということだ。
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)
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享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)
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ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)
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欲動のシニフィアンとは身体のシニフィアンでもある。
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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最後のフロイトの定義において欲動は身体的要求である。
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エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)
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つまり言語は存在しないとは「欲動の身体しかない」ということだ。
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これは実は既にニーチェが、「力への意志」表現を通して、言っていることでもある。
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力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である[Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …]
すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt]...
「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?[ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"?] ……
――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと[mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt](ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
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私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった[Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.](ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)
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ニーチェは自我は存在しないとさえ既に言っている。
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「主体」は虚構に過ぎない。自我はまったく存在しない。エゴイズムが批判されるとき語られる自我はない[Das »Subjekt« ist nur eine Fiktion: es gibt das ego gar nicht, von dem geredet wird, wenn man den Egoismus tadelt.] (ニーチェ遺稿1882ー1887年)
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あるいは「肉体しかない」と。
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「わたしは肉体であり魂である」ーーそう幼子は言う[»Leib bin ich und Seele« – so redet das Kind.]。なぜ、人々も幼児と同様にそう言っていけないだろう。
さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。
自分は全的に肉体であって、他の何物でもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表わすことばにすぎないのだ、と[Leib bin ich ganz und gar, und nichts außerdem; Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.]
肉体はひとつの大きい理性である[Der Leib ist eine große Vernunft]。一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。
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わたしの兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である[Werkzeug deines Leibes ist auch deine kleine Vernunft, mein Bruder, die du »Geist« nennst, ein kleines Werk- und Spielzeug deiner großen Vernunft.]
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君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それ「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。[»Ich« sagst du und bist stolz auf dies Wort. Aber das Größere ist, woran du nicht glauben willst – dein Leib und seine große Vernunft: die sagt nicht Ich, aber tut Ich.]
感覚と認識、それは、けっしてそれ自体が目的とならない。だが、感覚と精神は、自分たちがいっさいのことの目的だと、君を説得しようとする。それほどにこの両者、感覚と精神は虚栄心と思い上がったうぬぼれに充ちている[Was der Sinn fühlt, was der Geist erkennt, das hat niemals in sich sein Ende. Aber Sinn und Geist möchten dich überreden, sie seien aller Dinge Ende: so eitel sind sie.]
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だが、感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のおのれ」がある。この「本然のおのれ」は、感覚の目をもってもたずねる、精神の耳をもっても聞くのである[Werk- und Spielzeuge sind Sinn und Geist: hinter ihnen liegt noch das Selbst. Das Selbst sucht auch mit den Augen der Sinne, es horcht auch mit den Ohren des Geistes.]
こうして、この「本来のおのれ」は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして「我」の支配者でもある[Immer horcht das Selbst und sucht: es vergleicht, bezwingt, erobert, zerstört. Es herrscht und ist auch des Ichs Beherrscher.]
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わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、それが「本来のおのれ」である。 君の肉体のなかに、 かれが生んでいる。君の肉体がかれである[Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser – der heißt Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」Von den Verächtern des Leibes 、1883年)
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アルトーもこのセリーだよ、《おそらく彼(ゴッホ)以前においては、不幸なニーチェだけが魂を脱がせ、身体と魂を解放し、精神のごまかしの彼岸にある人間の身体をむき出しにするこの眼差しを持っていた[seul peut-être avant lui (Van Gogh) le malheureux Nietzsche eut ce regard à déshabiller l’âme, à délivrer le corps et l’âme, à mettre à nu le corps de l’homme, hors des subterfuges de l’esprit.] 》(アルトー『ヴァン・ゴッホ―社会が自殺させた者』ANTONIN ARTAUD, VAN GOGH, LE SUICIDÉ DE LA SOCIÉTÉ )
これらは自我はなくエスしかないということでもある。
自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)
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自我はエスの組織化された部分にすぎない[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es. ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)
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エスは無道徳とあるが、これがラカンの無法であり、つまりラカンの現実界はこのエスにほかならない。
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私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi. Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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「現実界は無法」(法なき現実界)の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥ(穴)である[la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. ](J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005)
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モノ概念を通すなら時期の離れた次の二文だ。
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel](Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03 Février 1960)
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したがってーー、
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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最後に「言語は存在しない」を外して、「自我は存在しない=自我は見せかけに過ぎない」に焦点を絞って言えば、実はフロイトやラカンの先達ニーチェだけではなく、カントも似たようなことを言っている。
しかし、この学の根底にはわれわれは、単純な、それ自身だけでは内容の全く空虚な表象「自我」以外の何ものをもおくことはできない。自我という表象は、それが概念である、と言うことすらできず、あらゆる概念に伴う単なる意識である、と言うことができるだけである。
Zum Grunde derselben koennen wir aber nichts anderes legen, als die einfache und fuer sich selbst an Inhalt gaenzlich leere Vorstellung: Ich; von der man nicht einmal sagen kann, dass sie ein Begriff sei, sondern ein blosses Bewusstsein, das alle Begriffe begleitet. (カント『純粋理性批判』1781年)
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たぶんカントだけでなく、調べれば同様のことを言っている人はもっと出てくる筈。自我あるいは自己とはむかしから哲学的な問いだったんだろうよ。
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