このザハロワ曰くの「他国への憎しみではなく、祖国への愛を持って生きる者が勝つ」というのはパトリオティズムなんだろうかね。 |
一般に愛国心には、自国の国益を追求する「ナショナリズム」と、自国の文化や自然を愛する「パトリオティズム」の2つがあると言われるが、パトリオティズムは、生まれ育った共同体や郷土を意味する「パトリア」に由来する言葉だ。他方、自国の国益を追求するナショナリズムについては、晩年のミッテランが遺言のような形で、《ナショナリズム、それは戦争だ![Le nationalisme, c'est la guerre ! ]》(1975年1月17日)と言い残した。 |
あるいは、ベネディクト・アンダーソンならこうだ。 |
◾️ナショナリズムは宗教であり、途方もない殺し合いを生み出す |
ネーション〔国民 Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属 nationality〕、ナショナリズム〔国民主義 nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕 |
ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ] そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕 |
国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。 そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings. ] |
これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。These deaths bring us abruptly face to face with the central problem posed by nationalism: what makes the shrunken imaginings of recent history (scarcely more than two centuries) generate such colossal sacrifices? I believe that the beginnings of an answer lie in the cultural roots of nationalism. |
(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年) |
ナショナリズムとパトリオティズムというのは、実際は厳密には区別できないんじゃないかね、ロシアはこのアンダーソンのいうナショナリズムなる宗教のようなところがどうしたってある。
ところでフロイトにおいては、ナショナリズムはナルシシズムである。
◼️ナショナリズムのナルシシズム的性格による異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種 |
ところで、とかくわれわれは、ある文化が持っているさまざまの理想ーーすなわち、最高の人間行為、一番努力に値する人間行動は何かという価値づけーーをその文化の精神財の一部とみなしやすい。すなわち、一見したところ、その文化圏に属する人間の行動はこれらの理想によって方向づけられるような印象を受けるのである。ところが真相は、生まれつきの素質とその文化の物的環境との共同作業によってまず最初の行動が生じ、それにもとづいて理想が形成されたあと、今度はこの理想が指針となって、それらの最初の行動がそのまま継続されるという逆の関係らしい。したがって、理想が文化構成員に与える満足感は、自分がすでに行なってうまくいった行動にたいする誇りにもとづくもの、つまりナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]のものである。この満足感がもっと完全になるためには、ほかのさまざまな文化ーーほかのタイプの人間行動を生み出し、ほかの種類の理想を発展させてきたほかのさまざまな文化――と自分との比較が必要である。どの文化も「自分には他の文化を軽蔑する当然の権利がある」と思いこんでいるのは、文化相互のあいだに認められるこの種の相異にもとづく。 |
このようにして、それぞれの文化が持つ理想は、異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種になるのであり、このことは、国家と国家のあいだの現状に一番はっきりとあらわれている。[die Kulturideale Anlaß zur Entzweiung und Verfeindung zwischen verschiedenen Kulturkreisen, wie es unter Nationen am deutlichsten wird. ] |
文化理想が与えるこのナルシシズム的満足はまた、同一文化圏の内部でのその文化にたいする敵意をうまく抑制するいくつかの要素の一つでもある「Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal gehört auch zu jenen Mächten, die der Kulturfeindschaft innerhalb des Kulturkreises erfolgreich entgegenwirken]。 |
つまり、その文化の恩恵を蒙っている上層階級ばかりではなく、抑えつけられている階層もまた、他の文化圏に属する人たちを軽蔑できることのなかに、自分の文化圏内での不利な扱いにたいする代償が得られるという点で、その文化の恩恵に浴しうるのである。「なるほど自分は、借金と兵役に苦しんでいる哀れな下層階級にはちがいない。でもそのかわり、自分はやはりローマ市民の一人で、 他の諸国民を支配自分の意のままに動かすという使命の一端をになっているのだ」というわけである。 しかし、抑えつけられている社会階層が自分たちを支配し搾取している社会階層と自分とをこのように同一化することも、さらに大きな関連の一部にすぎない。すなわち、この社会階層の人々は、一方では敵意を抱きながらも、他面においては、感情的にも支配階層に隷属し、支配階層を自分たちの理想と仰ぐことも考えられるのだ[Anderseits können jene affektiv an diese gebunden sein, trotz der Feindseligkeit ihre Ideale in ihren Herren erblicken. ]。基本的には満足すべきものであるこの種の事情が存在しないとするならば、大多数を占める人々の正当な敵意にもかかわらず、多数の文化圏がこれほど長く存続してきたことは不可解という他はあるまい。(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年) |
このフロイトは、ベネディクト・アンダーソンの言っている線だな、つまり途方もない犠牲を生み出しうるナルシシズム的ナショナリズムだ。
柄谷は90年代だが次のように言ってる。
柄谷行人:彼(カント)は、旧来の哲学で人間がまちがえるのは感性によってだと考えられていたときに、そうではなく、理性こそがまちがえるのだと言った。ということは、理性がどうしても解決しなければならないような欲動があるんだということです。これはメタ・フィジカルな問題です。言い換えれば、それは死の問題だと思う。アンダーソンはナショナリズムを、そのために人が死に得るようなものという観点からみています。宗教のために死ねなくなった場合に、ネーションがその代わりをする。また、ネーションは、先祖・子孫というような家族的連続性の代わりでもあるからです。〔・・・〕 ぼくはナショナリズムをその観点から見なければならないと思っているんです。自己保存ではなく、自己破壊の観点から。(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』Ⅱ 11-1996) |
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欲動、死の問題、あるいは自己破壊とあるが、つまりナショナリズムの背後には死の欲動があるということだ。
欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 |
Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 |
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか! |
es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕 |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 |
Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. |
(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
先のフロイトの「ナショナリズム=ナルシシズム」を受け入れるなら、《ナルシシズムの背後には死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)でもある。
そもそも愛国心という「祖国への愛を持つ」宗教が他者に残酷にならないためにどんな条件があるんだろうか。
信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。 もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容になりがちである[Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年) |
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最後に私が好んで何度か引用してきたヴィクトル・フーゴーの言葉と柄谷注釈を掲げておこう。 |
故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。 The person who finds his homeland sweet is a tender beginner; he to whom every soil is as his native one is already strong; but he is perfect to whom the entire world is as a foreign place. (サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章) |
こういう言葉があります。 《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》 これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。 これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。 |
その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているわけです。〔・・・〕 次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。〔・・・〕 |
第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味でデカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。(柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』所収、1989年) |
要するに、私は愛国ときくと、それがパトリオティズムであれナショナリズムであれ、悪い臭いを嗅ぐね。
人は共同体のネガを目指さないとな。
ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年) |
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おっと、こう引用すると別の文が芋蔓式に出てくるな・・・
デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。〔・・・〕 誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年) |
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