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2025年8月12日火曜日

広陵高校関係者の「深く頭を下げてお詫び」写真のスバラシさ

 

こういった話題には疎くーー関心が薄くーー、たまたま拾ったのが、この広陵高校関係者の「深く頭を下げてお詫び」写真はスバラシイな、日本文化の本質を想起させてくれて。




日本文化の中では、原則として、過去は殊に不都合な過去は―、「水に流す」ことが出来ると同時に未来を思い患う必要はない。「明日は明日の風が吹く」

地震は起こるだろうし、バブル経済ははじけるだろう。明日がどうなろうと、建物の安全基準をごまかして今カネをもうけ、不良債権を積み上げて今商売を盛んにする。もし建物の危険がばれ、不良債権が回収できなくなれば、その時時点で、深く頭を下げ、「世間をお騒がせ」したことを、「誠心誠意」おわびする。要するに未来を考えずに現在の利益をめざして動き、失敗すれば水に流すか、少なくとも流そうと努力する。その努力の内容は、「誠心誠意」すなわち「心の問題」であり、行為が社会にどういう結果を及ぼしたか(結果責任)よりも、当事者がどういう意図をもって行動したか(意図の善悪)が話の中心になるだろう。文化的伝統は決して亡びていない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)




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要するに「今=ここ」文化だーー、


日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。それは日本の文学的伝統や日常生活の習慣にも見られ、始めなく終わりない時間のことである。またそこにあるのは現在あるいは「今」だけだという意味で、もう一つの表象として循環する時間が挙げられる。循環する時間は、過去、未来、全ての時間の現代化を意味する。


そうすると時間の「全体」は、現在=今が無限に連なる直線、あるいは無限に循環する円周であると言える。これは日本文化の伝統が強調する現在集中主義が、全体に対する部分重視傾向の一つの表現と解することもできる。ここでは部分が集まると全体が現れる。


また「空間」においても、私の住む場所=「ここ」、つまり部分が先ず存在し、その周辺に外側空間が広がる。その外側の全体は、日本の伝統では強い関心の対象ではなかった。一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団領域を「ここ」として意識し、その「ここ」から世界の全体を見る。


こうした部分が全体に先行する心理的傾向の時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。こうした日本の全体に先行するものの見方は、「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)