2025年8月3日日曜日

現代社会の資本主義カルトによる「障害」の激増

 

既に1世紀前に、ベンヤミンは資本主義はカルトだと言っているがね、この意味では、現在の資本主義の至高の形態である新自由主義(市場原理主義)にまったく疑いを持たずに生きる人間はみなカルトだよ。


◼️ヴァルター・ベンヤミン『宗教としての資本主義』1921年

Walter Benjamin, Kapitalismus als religion, 1921

資本主義に宗教を見出すことができる。つまり、資本主義は本質的に、いわゆる宗教が答えを提供したのと同じ不安、苦痛、混乱を和らげる役目を果たす。資本主義の宗教的構造が、ウェーバーが信じるように、単に宗教によって条件付けられた形成としてではなく、本質的に宗教的な現象として証明されることは、今日でもなお、終わりのない普遍的な論争の愚かさにつながるだろう。私たちは、自分たちが捕らえられた網を閉じることはできない。しかし、後になって、その網の概要を把握できるようになるだろう。

それでも現時点においても、この資本主義の宗教的構造の3つの側面を区別することは可能である。第一に、資本主義は純粋にカルト的な宗教であり、おそらくこれまでに存在した中で最も極端なものである。資本主義では、物事はカルトとの関係においてのみ意味を持つ。資本主義には特定の教義も神学もない。この観点から、功利主義は宗教的な意味合いを獲得する。このカルトの具体化は、資本主義の2番目の特徴であるカルトの永続性と関連している。資本主義は、夢も慈悲もないカルトの祝典である。「平日」はない。神聖な華やかさがすべて目の前に展開されるという恐ろしい意味で、祝祭日でない日はない。毎日、各崇拝者に完全な忠誠を要求する。そして3番目に、カルトは罪悪感を蔓延させる。資本主義は、おそらく罪悪感を生み出すカルトの最初の例であり、償いではない。

Im Kapitalismus ist eine Religion zu erblicken, d.h. der Kapitalismus dient essentiell der Befriedigung derselben Sorgen, Qualen, Unruhen, auf die ehemals die so genannten Religionen Antwort gaben. Der Nachweis dieser religiösen Struktur des Kapitalismus, nicht nur, wie Weber meint, als einen religiös bedingten Gebildes, sondern als einer essentiell religiösen Erscheinung, würde heute noch auf den Abweg einer maßlosen Universalpolemik führen. Wir können das Netz in dem wir stehen nicht zuziehn. Später wird dies jedoch überblickt werden.

Drei Züge jedoch sind schon der Gegenwart an dieser religiösen Struktur des Kapitalismus erkennbar. Erstens ist der Kapitalismus eine reine Kultreligion, vielleicht die extremste, die es je gegeben hat. Es hat in ihm alles nur unmittelbar mit Beziehung auf den Kultus Bedeutung, er kennt keine spezielle Dogmatik, keine Theologie. Der Utilitarismus gewinnt unter diesem Gesichtspunkt seine religiöse Färbung. Mit dieser Konkretion des Kultus hängt ein zweiter Zug des Kapitalismus zusammen: die permanente Dauer des Kultus. Der Kapitalismus ist die Zelebrierung eines Kultes sans rêve et sans merci. Es gibt da keinen „Wo-chentag“(,) keinen Tag der nicht Festtag in dem fürchterlichen Sinne der Entfaltung allen sakralen Pompes(,) der äußersten Anspannung des Verehrenden wäre. Dieser Kultus ist zum dritten verschuldend. Der Kapitalismus ist vermutlich der erste Fall eines nicht entsühnenden, sondern verschuldenden Kultus. ……


私が依拠することが多いラカン派のポール・バーハウは、このベンヤミンに触れつつ、次のように言っている。

◾️ポール・バーハウ「悪はシステムの一部」

EVIL IS PART OF THE SYSTEM, With Paul Verhaeghe about self-discipline, sense of happiness and guilt 

Marta Martinová 2016

ヴァルター・ベンヤミンは、1921年にすでに『宗教としての資本主義(Kapitalismus als religion)』というテキストの中で、資本主義が罪悪感を伴う新たな宗教となり、そこから逃れられないというこの進化を予見していました。〔・・・〕

新自由主義のイデオロギーは、幸福は(職業的、経済的)成功にかかっており、成功とは最善を尽くし、懸命に働き、正しい選択をし、正しいプログラムに従うことだと私たちに信じ込ませてきました。完璧は誰もが達成できるものであり、私たちは完璧な体、完璧な関係、素晴らしいセックス、完璧な子供たち、そしてもちろん、大金を稼ぐ大成功したキャリア。そうあるべきだというのです。そうでない場合は、それはあなたのせいであり、あなたが十分に努力しなかった、正しい選択をしなかったなどです。もしその挫折の時点で、どこかの偉い人が、あなたや子供たちの挫折はあなたの努力不足のせいではなく、「障害」と呼ばれる、通常は科学的な響きを持つ頭字語で示される何かのせいだと教えてくれたら、ホッとするでしょう。 私に罪はない、私のミスではない、私は「障害」に苦しんでいるのだ! そのための薬さえある。私は生き方を変えたり、他の選択をしたりする必要はない。いいえ、薬が効きます(効くことは決してありません)。この議論全体が科学的に正しく、証明されているかのように提示されていますが、実際はそうではありません。その逆です。


結局のところ、誰もが「幸せ」なのです。患者はもう罪悪感を感じる必要はなく、製薬業界は薬を売り続け、ビジネスは通常どおりに継続します。唯一の欠点は、燃え尽き症候群とうつ病の組み合わせに苦しんでいる人が非常に多く、その数が経済にとって深刻な脅威になりつつあることです。

〔・・・〕

いわゆる自由市場の言説の最も危険な影響だと私が考えるのは、それが私たちの「現実」になっていることです。つまり、私たちはこれを通常の状況だと考えています。私たちのほとんどは、特に当事者は、もはやそれを疑問視しません。それは私たちが呼吸する空気になっています(実際、汚染された空気です)。この状況をハンナ・アーレントの観点から考えると、私たちは思考停止を誘発するシステム(匿名でデジタル)の中で暮らしています。考えることは時代遅れになり、過去のものになりました。「考えすぎてはいけません、それはあなたにとって良くありません、心配するのはやめましょう!」という具合です。「考えないで、行動し、いつものように、いつものように行動しよう」、と。ハンナ・アーレントによると、これが根源的な悪の陳腐さにつながるものです。根源的悪はシステム自体に包含されています。なぜなら、システムでは他のすべての人を潜在的な競争相手、したがって潜在的な敵と宣言しているからです。悪は凡庸です。なぜなら、それは恐ろしい人々によって犯されたものではないからです。普通の人々、つまり親たち自身も普通の生活を送っている人々は、自分自身と子供たちの将来を破壊しているという事実を意識せずに、日々の決断を下すからです。そして今回も、彼らの弁明は「私たちは何も知らなかったんだ(Wir haben es nicht gewusst)」でしょう。


より詳しくは新自由主義イデオロギーと「新型うつ」


上に「障害」とあるが、その代表的なものは発達障害だろうよ。私はこの病いに詳しくはないが、次のような現象にまずは驚かないとな。




この激増はーー診断基準が変わったとか、早期発見傾向やら社会的認知度の向上やらと言われるがーー、まずは新自由主義の病いだよ。これには医産複合体側にはすこぶる効用があって、障害者診断を増やして濡れ手にアワのボロ儲けができる。つまりは資本主義カルトが創り出した病いじゃないだろうか。


ラカニアンというのはこのカルトと闘っているんだ。バーハウだけでなく、『資本家の無意識( The Capitalist Unconscious)』(2015)を上梓して、一部のマルキストたちに注目を浴びるようになったサモ・トムシッチは次のように言っている。



◼️サモ・トムシックSamo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015, pdf

…社会的生産様式を支えるメカニズムに対する具体的な洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち「資本主義の中の居心地の悪さ(Das Unbehagen im Kapitalismus)」のほうが「文化の中の居心地の悪さ(Das Unbehagen in der Kultur)」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。フロイトの無意識理論に伴う認識論と政治的問題の結びつきは、資本主義が精神分析にとって重要な問題の一つであり、臨床実践が資本主義的享受様式と呼べるものの病理に絶えず直面していることを示唆している。ラカンは、次の力強い発言でこの点を強調した、「聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、ーーそれが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない(Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.)」(Lacan, Télévision, AE520, Noël 1973)


実際、精神分析的に見て「奇妙な病気」が増えてきたら、どうしたって社会的システムに視線を向けざるを得ない。現代社会の資本主義カルトにね。

バーハウは、このカルトの時代を巧みに泳いでいけるのはサイコパスだけだという話まで、一般向けのガーディアンの記事でしている。


◼️ポール・バーハウ「新自由主義は私たちの中にある最悪のものを引き出した」2014年9月29日

Neoliberalism has brought out the worst in us, Paul Verhaeghe,  The Guardian 29 Sep 2014

ーーサイコパス的な性格特性に報いる経済システムが私たちの倫理観と性格を変えてしまった

An economic system that rewards psychopathic personality traits has changed our ethics and our personalities

私たちは、自己のアイデンティティは変動のないもので、外部の力から大きく分離されていると認識しがちである。しかし私は、数十年にわたる研究と治療の実践を通して、経済の変化は私たちの価値観だけでなく、人格にも大きな影響を与えていると確信するようになった。 30年にわたる新自由主義、自由市場主義、民営化の弊害で、絶え間ない達成への圧力が常態化している。 もしあなたがこれを懐疑的に読んでいるなら、私はこう断言する。実力主義的な新自由主義は、特定の性格特性を優遇し、他の特性を不当に扱うと。


今日、キャリアを築くには、理想的な資質がいくつか求められる。まず第一に、明確な意思表示ができること。これは、できるだけ多くの人々の心を掴むことを目的としている。交際は表面的なものかもしれないが、これは現代の人間関係のほとんどに当てはまるため、あまり意識されることはないだろう。

自分の能力をできる限りアピールすることが大切である。例えば、たくさんの知り合いがいて、豊富な経験があり、最近は大きなプロジェクトを終えたばかりといった具合に。後になって、それがほとんど作り話だったと分かるだろう。しかし、最初に騙されたのは、別の性格特性によるものだ。あなたは説得力のある嘘をつき、罪悪感をほとんど感じない。だからこそ、自分の行動に責任を負わないのである。


加えて、あなたは柔軟で衝動的で、常に新しい刺激や挑戦を求めている。実際には、これが危険な行動につながることもあるが心配はいらない。その責任を負わされるのはあなたではない。このリストのインスピレーションの源は?今日最も著名なサイコパス専門家、ロバート・ヘアによるサイコパシーチェックリストである。

もちろん、この説明は極端に誇張された戯画である。しかしながら、金融危機はマクロ社会レベル(例えばユーロ圏諸国間の紛争)で、新自由主義的な能力主義が人々に何をもたらすかを如実に示した。連帯は高価な贅沢品となり、一時的な同盟関係に取って代わられ、常に競争相手よりも多くの利益を上げることが最優先される。同僚との社会的なつながりは弱まり、企業や組織への感情的なコミットメントも弱まる。


いじめはかつて学校に限られていたが、今では職場でも一般的になっている。いじめは、無力な人が弱者に不満をぶつける典型的な症状であり、心理学では転移攻撃として知られている。パフォーマンス不安から、脅威となる他者に対するより広範な社会的恐怖に至るまで、根深い恐怖感が存在する。

職場での絶え間ない評価は、自律性の低下と、しばしば変化する外部規範への依存度を高める。これは、社会学者リチャード・セネットが的確に表現した「労働者の幼児化」につながる。大人たちは子供のような怒りを爆発させ、些細なことで嫉妬し(「彼女は新しいオフィスチェアを買ったのに、私は買ってない」など)、罪のない嘘をつき、欺瞞に訴え、他人の失敗を喜び、つまらない復讐心を抱く。これは、人々が自立して考えることを妨げ、従業員を大人として扱わないシステムが招いた結果である。


しかし、より重要なのは、人々の自尊心が深刻に損なわれていることである。ヘーゲルからラカンに至るまでの思想家たちが示してきたように、自尊心は他者から受ける承認に大きく左右される。セネットは、現代の従業員にとっての最大の問いは「誰が私を必要とするのか?」であると考え、同様の結論に至っている。そして、ますます多くの人々にとって、その答えは「誰も必要としていない」である。

私たちの社会は、努力さえすれば誰でも成功できると常に主張し、同時に特権を強化し、過重労働で疲弊した市民にさらなるプレッシャーをかけている。ますます多くの人々が挫折し、屈辱感、罪悪感、恥を感じている。私たちはかつてないほど自由に人生の進路を選択できると常に言われているが、成功物語の外側で選択する自由は限られている。さらに、失敗した人々は負け犬か、社会保障制度を食い物にする寄生虫とみなされる。


新自由主義的な能力主義は、成功は個人の努力と才能にかかっていると信じ込ませようとする。つまり、責任はすべて個人にあり、権力は人々が目標を達成するために可能な限りの自由を与えるべきだということである。制限のない選択のおとぎ話を信じる人々にとって、自治と自主管理は、特にそれが自由を約束するように見える場合、最も重要な政治メッセージである。個人は完全になり得るという考えとともに、西洋で私たちが持っていると認識している自由は、この時代の最大の虚偽だ。

社会学者ジグムント・バウマンは、現代のパラドクスを「これほど自由になったことはかつてない。これほど無力だと感じたことはかつてない」と簡潔にまとめている。確かに、私たちは以前よりも自由である。宗教を批判し、性に対する新たな自由放任主義的な態度を利用し、好きな政治運動を支持できるという意味で。これらすべてが可能なのは、もはや何の意味も持たないからである。こうした自由は無関心によって引き起こされる。しかし一方で、私たちの日常生活は、カフカさえも膝から崩れ落ちるような官僚主義との絶え間ない戦いとなっている。パンの塩分濃度から都市部における養鶏に至るまで、あらゆるものに規制がかけられている。

私たちが当然持っている自由は、ある一つの核心条件に結びついている。それは、成功すること、つまり「何かを成し遂げる」ことだ。事例を探す必要はない。高いスキルを持ちながら、キャリアよりも子育てを優先する人は批判の的となる。良い仕事に就いているのに、他のことに時間を割くために昇進を断る人は、その仕事が成功を約束するものでない限り、正気ではないとみなされる。小学校の先生になりたい若い女性が、両親からまず経済学の修士号を取得すべきだと言われる。小学校の先生なんていったい何を考えているんだ?となる。


私たちの文化におけるいわゆる規範や価値観の喪失について、絶え間ない嘆きがある。しかし、私たちの規範や価値観は、私たちのアイデンティティの不可欠な部分を構成している。だからそれらは失われることはなく、変わることしかできないのである。そして、まさにそれが起こっている。変化した経済は、変化した倫理観を反映し、変化したアイデンティティをもたらす。現在の経済システムは、私たちの中の最悪の部分を引き出している。



バーハウが触れている名高いサイコパス専門家ロバート・ヘア(Robert Hare)によるサイコパシーチェックリスト(The psychopathy checklist)は次のものだ(改訂最新版)。




で、どうなんだろ、例えば「発達障害」はこのサイコパス特性がきわめて欠けている人なんじゃないかい?