2025年8月7日木曜日

人間にはもともと、いわば生まれつき善悪を区別する能力があるなどという説は無視していい


 基本的なところは押さえておかないとな、何よりもまずニーチェの『善悪の彼岸』『道徳の系譜』やフロイトによる明晰な説明のあとで、いまだ性善説なんて信じているヤツはみな通俗道徳家に過ぎないよ。ーー《通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen]… 完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen]》 (ニーチェ『この人を見よ』)


ここでは一般にもわかりやすいだろう文だけをいくつか抽出しておくがね。


人間にはもともと、いわば生まれつき善悪を区別する能力があるなどという説は無視していい[Ein ursprüngliches, sozusagen natürliches Unterscheidungsvermögen für Gut und Böse darf man ablehnen]。 その証拠に、いわゆる「悪」は、自我にとってぜんぜん不利でも危険でもない場合も多く、かえって反対に、自我にとって望ましいもの、楽しいものであることもある。つまり、ここには自我以外の力が働いており、何が善であり何が悪であるべきかを決定するのはこの外部の力なのだ。人間が自身のイニシアティブでは同じ結論に達しなかっただろうということを考えると、人間がこの外部の力に屈するについては、それなりの動機があるにちがいない。そしてその動機はすぐ見つかる。それは、人間が無力で他人に依存せざるをえない存在だという事実であり、他人の愛を失うことへの不安と名づけるのが一番適当だ[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden]。自分が依存せざるをえない他人の愛を失うことは、さまざまな危険にたいする保護からも見離されることを意味するが、それよりもまず、自分にたいして優位に立つこの他人が、懲罰という形で自分にその優越性を見せつける危険に身を曝すことになる。すなわち、そもそも「悪」とは、そんなことをすればもう愛してはやらないぞと言われてしまうようなものであり、この愛を失うことへの不安から、われわれは誰しも「悪」を避けざるをえないのだ[Das Böse ist also anfänglich dasjenige, wofür man mit Liebesverlust bedroht wird; aus Angst vor diesem Verlust muß man es vermeiden]。すでに「悪」をしたか、それともこれからやるつもりであるかの区別が重要でないというのもここからきている。どちらの場合にも、危険なのはこの優位に立つ他人にそのことを知られてからの話で、知られてしまったら、どちらの場合にも同じ制裁が加えられるだろう。

こういう状態は、ふつう「良心の疚しさ」と呼ばれているが、本当はこの名称は正しくない。というのは、この段階での罪の意識は、明らかに愛を失うことへの不安、つまり一種の「社会的」不安にすぎないからである[Man heißt diesen Zustand »schlechtes Gewissen«, aber eigentlich verdient er diesen Namen nicht, denn auf dieser Stufe ist das Schuldbewußtsein offenbar nur Angst vor dem Liebesverlust, »soziale« Angst. ]。 幼児の場合にはこれ以外の状況を考える余地はまったく無いが、大人の場合にも、父親ないしは両親のかわりにかなり大きな人間集団が登場するということ以外、すこしも変わらないことが多い。だから、普通は大人も、自分に楽しみを与えてくれそうな悪事を、自分にたいして優位に立つ他者の耳に入ることは絶対にないとか、入ったところでその他人は自分に手出しできないことが確かでさえあれば、平気でやってのけるのであって、見つかるかどうかが不安なだけである。現代社会は、いわゆる大人の「良心」の水準なるものは一般にこの程度のものと考えておく必要がある。

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ不満』第8章、1930年)



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外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の「魂」と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたごとく薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外へのはけ口が堰き止められてしまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーわけても刑罰がこの防堡の一つだ――は、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。


Alle Instinkte, welche sich nicht nach außen entladen, wenden sich nach innen - dies ist das, was ich die Verinnerlichung des Menschen nenne: damit wächst erst das an den Menschen heran, was man später seine »Seele« nennt. Die ganze innere Welt, ursprünglich dünn wie zwischen zwei Häute eingespannt, ist in dem Maße auseinander- und aufge-gangen, hat Tiefe, Breite, Höhe bekommen, als die Entladung des Menschen nach außen gehemmt worden ist. Jene furchtbaren Bollwerke, mit denen sich die staatliche Organisation gegen die alten Instinkte der Freiheit schützte - die Strafen gehören vor allem zu diesen Bollwerken -, brachten zuwege, daß alle jene Instinkte des wilden freien schweifenden Menschen sich rückwärts, sich gegen den Menschen selbst wandten. Die Feindschaft, die Grausamkeit, die Lust an der Verfolgung, am Überfall, am Wechsel, an der Zerstörung - alles das gegen die Inhaber solcher Instinkte sich wendend: das ist der Ursprung des »schlechten Gewissens«.

(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文16節、1887年)


ーー《第二論文の提供する真理は良心の心理学だ。良心とは、一般に信じられているように「人間の中なる神の声」などではない。ーーそれは残虐性の本能であって、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので一転して内面に向かったものだ。Die zweite Abhandlung gibt die Psychologie des Gewissens: dasselbe ist nicht, wie wohl geglaubt wird, »die Stimme Gottes im Menschen« – es ist der Instinkt der Grausamkeit, der sich rückwärts wendet, nachdem er nicht mehr nach außen hin sich entladen kann.》( ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」[道徳の系譜学]の節、1888年)


われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。それは、ちょっと想像もつかぬほど非常に奇抜だが、考えてみるとごく当り前の方法である。われわれの攻撃欲動を取り入れ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃性をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。このようにして自我の内部に戻った攻撃欲動は、超自我の形で自我の他の部分と対立している自我の一部に取り入れられ、こんどは「良心」になって、本当なら自我自身が自分とは縁のない他人にたいして示したかったであろうのと同じ厳格さでもって、自分自身の自我にたいするのである。厳格な超自我とこれに隷属する普通の自我との緊張関係――これがいわゆる罪の意識であり、これは自己懲罰の欲求として現われる。すなわち文化は、個々人の内部に潜む危険な攻撃欲動を押えつけるために、個々人を弱め、武装解除し、その心の中の法廷に征服された都市が占領軍に看視されるように――看視させるという方法を使うのだ。


Was geht mit ihm vor, um seine Aggressionslust unschädlich zu machen? Etwas sehr Merkwürdiges, das wir nicht erraten hätten und das doch so naheliegt. Die Aggression wird introjiziert, verinnerlicht, eigentlich aber dorthin zurückgeschickt, woher sie gekommen ist, also gegen das eigene Ich gewendet.Dort wird sie von einem Anteil des Ichs übernommen, das sich als Über-Ich dem übrigen entgegenstellt und nun als »Gewissen« gegen das Ich dieselbe strenge Aggressionsbereitschaft ausübt, die das Ich gerne an anderen, fremden Individuen befriedigt hätte. Die Spannung zwischen dem gestrengen Über-Ich und dem ihm unterworfenen Ich heißen wir Schuldbewußtsein; sie äußert sich als Strafbedürfnis. Die Kultur bewältigt also die gefährliche Aggressionslust des Individuums, indem sie es schwächt, entwaffnet und durch eine Instanz in seinem Inneren, wie durch eine Besatzung in der eroberten Stadt, überwachen läßt. 

(フロイト『文化への不満』第7章、1930年)


人は通常、道徳的要求が最初にあり、欲動断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、道徳性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動断念が初めて道徳性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動断念をさらに求めるのである。

Man stellt es gewöhnlich so dar, als sei die sittliche Anforderung das Primäre und der Triebverzicht ihre Folge. Dabei bleibt die Herkunft der Sittlichkeit unerklärt. In Wirklichkeit scheint es umgekehrt zuzugehen; der erste Triebverzicht ist ein durch äußere Mächte erzwungener, und er schafft erst die Sittlichkeit, die sich im Gewissen ausdrückt und weiteren Triebverzicht fordert. 

(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)