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2025年8月24日日曜日

蓮實重彦と「ゆらめく閃光」


ネット上で先程偶々拾ったのだが、スポーツをめぐるきわめて「美しい」蓮實重彦の文である。


スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めて、スポーツを見る。 文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです。優れた選手とは、文化として始まったものを、いきなり自然によって蹂躙してしまう野蛮な存在にほかなりません。ロナウドの足捌きを見てみるがいい。あれが文化として継承可能な運動とはとても思えません。 あれこそ係累なしの、孤独で一代かぎりの獰猛さにほかなりません。プレーのスタイルも水準も違いますが、日本に三浦知良の後継者が存在しないのも、同じ理由によります。


不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること。 それを、運動することの「知性」と呼ぶことにしましょう。 これは、「知識人的」であることとはいっさい無縁のものですが、それを周囲に組織する能力を、運動することの「想像力」と呼ぶことにしましょう。 「知性」と「想像力」とが一つになったとき――ごく稀なできごとなのですが――そこには動くことの「美しさ」が顕現します。だから、「美しい」選手がいるのではない。選手が「美しさ」を体現してしまう瞬間があるというだけなのです。


二〇〇二年のワールドカップにおける数少ない出場試合におけるジダンの動きは、一瞬たりとも「美しく」なかった。だが、その直前のチャンピオンズ・リーグでの彼の動きは、信じがたいほど「美し」かった。デイヴィッド・ベッカムだって、ピッチに立っているあらゆる瞬間に「美しい」わけではない。ワールドカップの対ブラジル戦で、自陣深くでボールを奪われた瞬間の彼は、むしろ「醜さ」を体現していたとさえいえます。その「醜さ」を一瞬にして忘れさせてくれたのは、その直後に奪ったボールを受けたブラジルのロナウジーニョの弾むようなドリブルによる中央突破にほかなりません。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言』2004年)


何が「運動」を「美しさ」へと変化させるのでしょうか。それは、潜在的なものが顕在化する一瞬に立ち会い、その予期せぬ変化を誰もが自分の肌で感じるということなのです。〔・・・〕

野球はきわめて詳細な人工的な規則があるでしょう。それに対して、サッカーの90%が動物でもできるものだと思っています(笑)。かろうじて「人間」的なルールはオフサイドをめぐるものだけであり、あとはいかにも動物的なスポーツです。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言』2004年)


(中田英寿がエースだった頃の記者会見で、なぜ中田が不機嫌そうに記者に答えるかについて)

 理由は簡単です。人類は「運動」が嫌いなのであり、とりわけ日本のジャーナリストたちは、無意識のうちに「運動」が嫌いな人類の代表として振る舞ってしまうからです。こうして彼らは、「運動」好きの選手たちを、「運動」嫌いな人類の側に何とか引き寄せようとする。結果は数字になるけれども、「運動」は数字にならないからです。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言』2004年)



私はこの書をまったく知らないのだが、昔出典不明ながらひどく感心した次の文もおそらく『スポーツ批評宣言』からではないか。

スポーツはそもそも反民主主義です。神様に愛されたものたちだけが、活躍できるという恩寵にみちた世界です。その活力を社会が吸い取れなかったら、社会が滅びる。文化もそうでしょう。社会がそうしたものを組み込めなくなっている危うい時に、われわれがスポーツを批評する意味はそこにある。(蓮實重彦bot)




《何が「運動」を「美しさ」へと変化させるのでしょうか。それは、潜在的なものが顕在化する一瞬に立ち会い、その予期せぬ変化を誰もが自分の肌で感じるということなのです。》ーーとあったので、これは自分の引き出しの奥にある在庫から、別の文を引用しておこう。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。


決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』2006年)



蓮實重彦は似たようなことを翌年のインタビューでも言っている。



これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原=翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。


だから、「réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原=翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめ、2007年)



ついでにーーそのまま蓮實の言っている事に当てはまるか否かは問わずにーー、ドゥルーズの潜在的なものを掲げておこう。


潜在的なものは、リアルなものには対立せず、ただ現勢的なものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性réalitéを保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、「現勢性なきリアル、抽象性なきイデア」、そして虚構なき象徴性。

Le virtuel ne s'opposent pas au réel, mais suelement à l'actuel. Le virtuel possède une pleine réalité, en tant que virtuel. Du virtuel, il faut dire exactement ce que Proust disait des états de résonance : « réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits » ; et symboliques sans être fictifs .(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

《現勢性なきリアル、抽象性なきイデア 》(「見出された時」)――このイデア的リアル 、この潜在的なもの、これが本質である。本質は、無意志的回想の中に実現化または具現化される。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的回想は、本質の持つふたつの力を保持している。それは、「過去の時間の中での差異」と「現勢性の中での反復」である。

« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire. Ici comme dans l'art, l'enveloppement, l'enroulement, reste l'état supérieur de l'essence. Et le souvenir involontaire en retient les deux pouvoirs : la différence dans l'ancien moment, la répétition dans l'actuel. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第1部第5章「記憶の二次的役割」1970年)


なお、ドゥルーズはこの潜在的なものを潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]とも言った。


反復は、ひとつの現在からもうひとつへ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。La répétition ne se constitue pas d'un présent  à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces  présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x). 〔・・・〕


そうしたことをフロイトは、抑圧よりもさらに深い事例を探していたとき、たとえそれがいわゆる「原」抑圧として同じように再び捉えることを意味したとしても、このことをよく理解していた。

Freud le sentait bien, quand il cherchait une instance plus profonde que celle  du refoulement, quitte à la concevoir encore sur le même mode,  comme un refoulement dit « primaire ». (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


ラカンはこの原抑圧を穴とした。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)


原抑圧は固着であり[参照]、この対象aは固着である。

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


問いは、ドゥルーズの潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]はラカンの対象aと等価か否かだが、これを厳密に示めそうとすると長くなるのでーーここでの話題でもないーー、今はやめておく。


ところで、ロラン・バルトには「ゆらめく閃光」un éclair qui flotteというとても美しい表現がある。

ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない[Le studium est en définitive toujours codé, le punctum ne l'est pas]。〔・・・〕それ(プンクトゥム)は鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである[il est aigu et étouffé, il crie en silence. Bizarre contradiction : c'est un éclair qui flotte.](ロラン・バルト『明るい部屋』第22章「事後と沈黙」)



前章にはこうある。

ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。…ある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、空無の通過を生ぜしめたのである。

Un détail emporte toute ma lecture; c'est une mutation vive de mon intérêt, une fulguration.(…) Ce quelque chose a fait tilt, il a provoqué en moi un petit ébranlement, un satori, le passage d'un vide 


プンクトゥムの読み取り(もしこう言ってよければ、先のとがった写真の読み取り)は、簡潔で、活発で、野獣のように引き締まっている。[la lecture du punctum(de la photo pointée, si l'on peut dire) est à la fois courte et active, ramassée comme un fauve.]〔・・・〕

展開しえないもの、あるエッセンス (傷のエッセンス)[une essence (de blessure)]。それは変換しうるものではなく、ただ固執 (執拗な眼差しによって) という形で反復されるだけである。

c'est l'indéveloppable, une essence (de blessure), ce qui ne peut se transformer, mais seulement se répéter sous les espèces de l'insistance (du regard insistant). (ロラン・バルト『明るい部屋』第21章「悟り」)


ラカニアンにとってこのプンクトゥムがリアルである。

『明るい部屋』のプンクトゥム[punctum]は、ストゥディウムに染みを作るものである[fait tache dans le studium]。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果[l'Effet de réel]と呼ばれるものである。

La chambre claire …Ce punctum c'est en quelque sorte un détail qui mobilise spécialement et qui fait tache dans le studium étale de l'image. Moi je prétends que c'est directement inspiré du Séminaire XI de Lacan, dans le style propre, le génie propre de Roland Barthes. …et qui s'appelle l'Effet de réel.   (J.-A. Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011)



私は、スポーツ批評で、あるいは映画批評で、ときに文学批評で、ハッとさせてくれる蓮實の文に出会う度に、その多くは、この「ゆらめく閃光」としてのプンクトゥムに関わるのではないかという「錯覚に閉じ籠っている」。最近の「些事にこだわり」で見せた眩暈のするような話「親しい女性のお尻」だって、私にとっては「ゆらめく閃光」だった。