◼️ペペ・エスコバル「中国のキツネ、アメリカのサメ、ヨーロッパのネズミ」 Chinese foxes, American sharks, European rodents, Pepe Escobar、July 31, 2025 |
……シンガポール出身のユエン・ユエン・アンは、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学で政治経済学の教授を務めている。彼女は、その定義上、例外主義である米国の学界の厳格な方針に従わなければならないかもしれない。しかし、少なくとも彼女はいくつかの貴重な洞察力を持っている。 例えば、「私たちは皆、注意力の欠如に悩まされている。以前は本を読み、次に記事、そしてエッセイ、ブログと読んできたが、今では 280 文字のツイートにまで短縮されている。その小さなスペースにどのようなメッセージが収まるか想像できるだろう。それは単純なものになるに違いない」と。 これは、サーカスのリングマスターが、無意味な投稿を積み重ねて支配している外交政策の本質を突いている。 |
Yuen Yuen Ang, from Singapore, is a professor of political economy at Johns Hopkins University in Baltimore. She may need to tow the – strict – lines of US academia, which is exceptionalist by definition. But at least she’s capable of some valuable insights. For instance: “We’re all suffering from an attention deficit. We used to read books, then articles, then essays, then blogs, and now it’s further reduced to tweets of 280 characters. So you can imagine what sorts of messages fit in that tiny space. It has to be simplistic.” That cuts to the heart of how the Circus Ringmaster is conducting his foreign policy; ruling via an accumulation of nonsensical posts. |
僕はツイッターで情報を取得する事を否定する者ではまったくないがね、でもその後だよ、重要なのは。少なくともいくらかは遡らないとな、記事や本へと。
人は忘れるのだ。深く考えなかったこと、他人の模倣や周囲の過熱によって頭にタイプされたことは、早く忘れる。周囲の過熱は変化し、それとともにわれわれの回想も更新される。外交官以上に、政治家たちは、ある時点で自分が立った見地をおぼえていない、そして、彼らの前言とりけしのあるものは、野心の過剰よりは記憶の欠如にもとづくのだ。社交界の人々といえば、ほとんどの事柄はおぼえていないにひとしいのである。 |
On oublie, du reste, vite ce qu'on n'a pas pensé avec profondeur, ce qui vous a été dicté par l'imitation, par les passions environnantes. Elles changent et avec elles se modifie notre souvenir. Encore plus que les diplomates, les hommes politiques ne se souviennent pas du point de vue auquel ils se sont placés à un certain moment, et quelques-unes de leurs palinodies tiennent moins à un excès d'ambition qu'à un manque de mémoire. Quant aux gens du monde, ils se souviennent de peu de chose. |
(プルースト「囚われの女」) |
官僚や政治家であってもこうなのだとしたら、ツイッター社交界の人々はホントにすぐ忘れるんだよ。特にビラビラ派はね。
自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか? (大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」) |
で、仮に本当のテキストに出会うことができたら、自分の言葉に要約しないことだな。 |
蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。〔・・・〕ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。〔・・・〕僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。〔・・・〕 流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦-柄谷行人対談集『闘争のエチカ』1988年) |
ところが、いまの人はこれらとまったく逆のことをやってるんだ、だから伝染力の強い誤解ばかりが蔓延る。 |
浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」) |
ワカルカイ? いや実はこんなこと言ってもムダなのを知らないわけじゃないがね。もう病膏肓に入ってる人ばかりでさ。
で、どうしたらいいかってのは、一度世界が亡んだほうがいいんじゃないかね。
近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。 その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号) |
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ここで文学とあるのは宙吊り精神だよ |
今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如にたいしてでは ないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。(古井由吉「翻訳と創作と」東京大学講演『群像』2012 年 12 月号) |
人がサスペンデッドな状態、宙吊りの状態に耐えられなくなっているんです。むずかしい問題は、たいがいサスペンデッドです。判断が下せない期間が長くなります。その猶予に耐えられないから、決まり切った概念、用語、符号が与えられることを求めるんです。(古井由吉「宙吊りに耐えられない」『人生の色気』2009年) |
つまりは不確実性の知恵だ。
◼️小説の知恵(不確実性の知恵)la sagesse du roman (la sagesse de l'incertitude) |
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。 この〈あれかこれか〉のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。 |
L'homme souhaite un monde où le bien et le mal soient nettement discernables car est en lui le désir, inné et indomptable, de juger avant de comprendre. Sur ce désir sont fondées les religions et les idéologies. Elles ne peuvent se concilier avec le roman que si elles traduisent son langage de relativité et d'ambiguïté dans leur discours apodictique et dogmatique. Elles exigent que quelqu'un ait raison ; ou Anna Karénine est victime d'un despote borné, ou Karénine est victime d'une femme immorale ; ou bien K., innocent, est écrasé par le tribunal injuste, ou bien derrière le tribunal se cache la justice divine et K. est coupable. Dans ce "ou bien-ou bien" est contenue l'incapacité de supporter la relativité essentielle des choses humaines, l'incapacité de regarder en face l'absence de Juge suprême. A cause de cette incapacité, la sagesse du roman (la sagesse de l'incertitude) est difficile à accepter et à comprendre. |
(ミラン・クンデラ「不評を買ったセルバンデスの遺産」『小説の精神』所収、Milan Kundera, l'héritage décrié de Cervantès, L'art du roman, 1986年) |
断っておくが、これは自戒の意味でも書いてるからな、僕もときにビラビラやることがないわけじゃないからな。
さらに言えば、反ビラビラ派の言葉でも次の事態になりうることを決して忘れちゃいけない。 |
憎んでいると思ったこともない代わりに |