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2025年9月16日火曜日

原人間は悪魔であり、文明は偽善である


 私は一応フロイト派だからな、こういう言い方は好きではないが、一般の人に比べればはるかにフロイトを読んでいるという意味での「フロイト派」であるには相違ない。だから前回掲げたクリス・ヘッジズの《我々が盗んだ土地の者たちの根絶、我々が略奪した資源所有者の根絶、我々が搾取した労働者の根絶、これは我々のDNAに刻み込まれている[The extermination of those whose land we steal, whose resources we plunder and whose labor we exploit is coded within our DNA.]》 (Exterminate All the Brutes, CHRIS HEDGES  OCT 28, 2023)というのを読んでもこれ自体は何も驚かないんだ。クリスの語り口が好きなだけでね。

ここではクリス・ヘッジズの主張を捕捉するべく、フロイトの人間の見方をいくつか列挙しておくよ。


◼️罰せられはしないということが分かれば、自分の物欲、攻撃衝動、性欲などを満足させてはばからず、嘘や詐欺や中傷で他人を傷つけることを平気でする人類

用語の混乱を避けるため、私は、欲動が満足させられえない事態を「拒否」Versagung、この拒否が制度化されたものを「禁令」Verbot、そして、この禁令から生まれる状態を「不自由」Entbehrungと呼ぼうと思う。〔・・・〕

われわれは、大多数の人々が外的な強制を加えられてはじめて――つまり、外的な強制が実効を持ち、ほんとうに外的な強制が加えられる心配がある場合にだけーー文化の側からのこの種の禁令に服従していることを知って、意外の感に打たれ、また憂慮に満たされるのだ。このことは、すべての人間が同じように守らねばならぬとされている文化の側からのいわゆる道徳的要求にもあてはまる。 人間が道徳的に信用ならない存在だとされる場合の大部分はこの事例に属する。〔・・・〕

罰せられはしないということが分かれば、自分の物欲、攻撃衝動、性欲などを満足させてはばからず、嘘や詐欺や中傷で他人を傷つけることを平気でする文化人種はそれこそ数えきれない[Unendlich viele Kulturmenschen… , versagen sich nicht die Befriedigung ihrer Habgier, ihrer Aggressionslust, ihrer sexuellen Gelüste, unterlassen es nicht, den anderen durch Lüge, Betrug, Verleumdung zu schädigen, wenn sie dabei straflos bleiben können]。

おそらくこれは、人類が文化を持つようになっていらいずっと長くつづいてきた状態なのだ。(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年)




◼️自分自身にも感じられる「人間は人間にとって狼」

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛性向が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃性向も含まれている。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃性を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。人間は人間にとって狼である[Homo homini lupus]といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はいるだろうか。

通例この残忍な攻撃性は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃性は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人―― の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦の身の毛もよだつ事件まで を想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。

自分自身の心の中にも感ぜられ、他人も自分と同じく持っていると前提してさしつかえないこの攻撃性向の存在こそは、われわれと隣人の関係を阻害し、文化に大きな厄介をかける張本人だ。[Die Existenz dieser Aggressionsneigung, die wir bei uns selbst verspüren können, beim anderen mit Recht voraussetzen, ist das Moment, das unser Verhältnis zum Nächsten stört und die Kultur zu ihrem Aufwand nötigt.]


そもそもの初めから人間の心に巣喰っているこの人間相互の敵意のために、文化社会は不断に崩壊の危険に曝されている。欲動的情動は理性的打算より強力だから、労働共同体の利害などを持ち出しても、文化社会を繋ぎとめておくことはできないだろう。人間の攻撃欲動を規制し、その発現を心理的反動形成によって抑止するためには、文化はその総力を結集する必要がある。さればこそ文化は、人間を同一化や本来の目的を制止された愛の結びつきへと駆り立てるためのさまざまな方法を動員し、性生活に制限を加え、「隣人を自分自身のように愛せ」などという、本来をいえば人間の本性にこれほど背くものはないということを唯一の存在理由にしているあの理想的命令を持ち出すのだ。

しかし、必死の努力にもかかわらず、これまでのところ文化は、この点で大した成果はあげていない。犯罪人を力で抑える権利を自分にあたえることによって文化は、血なまぐさい暴力が極端に横行することは防ぐことができると考えている。けれども、人間の攻撃性がもっと巧妙隠徹な形であらわれると、もはや法律の網にはひっかからない。われわれはすべて、若いころの自分が他人に託した期待を錯覚だったとして捨て去る日を一度は経験し、他人の悪意のおかげでいかに自分の人生が厄介で苦しいものになるかを痛感するはずである。そのさいわれわれは、争いと競争を人間の活動分野から締め出そうとするからといって文化を責めることはできないだろう。争いと競争はもとより不可欠である。けれども、対立はかならずしも敵対関係を意味する必要はなく、ただ敵対関係を作りだすためのきっかけに悪用されているにすぎない。

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)





◼️見つからなかったら平気で悪事をする人間

人間にはもともと、いわば生まれつき善悪を区別する能力があるなどという説は無視していい。Ein ursprüngliches, sozusagen natürliches Unterscheidungsvermögen für Gut und Böse darf man ablehnen. その証拠に、いわゆる「悪」は、自我にとってぜんぜん不利でも危険でもない場合も多く、かえって反対に、自我にとって望ましいもの、楽しいものであることもある。つまり、ここには自我以外の力が働いており、何が善であり何が悪であるべきかを決定するのはこの外部の力なのだ。人間が自身のイニシアティブでは同じ結論に達しなかっただろうということを考えると、人間がこの外部の力に屈するについては、それなりの動機があるにちがいない。そしてその動機はすぐ見つかる。それは、人間が無力で他人に依存せざるをえない存在だという事実であり、他人の愛を失うことへの不安と名づけるのが一番適当だ。自分が依存せざるをえない他人の愛を失うことは、さまざまな危険にたいする保護からも見離されることを意味するが、それよりもまず、自分にたいして優位に立つこの他人が、懲罰という形で自分にその優越性を見せつける危険に身を曝すことになる。すなわち、そもそも「悪」とは、そんなことをすればもう愛してはやらないぞと言われてしまうようなものであり、この愛を失うことへの不安から、われわれは誰しも「悪」を避けざるをえないのだ。すでに「悪」をしたか、それともこれからやるつもりであるかの区別が重要でないというのもここからきている。どちらの場合にも、危険なのはこの優位に立つ他人にそのことを知られてからの話で、知られてしまったら、どちらの場合にも同じ制裁が加えられるだろう。


こういう状態は、ふつう「良心の疚しさ」と呼ばれているが、本当はこの名称は正しくない。というのは、この段階での罪の意識は、明らかに愛を失うことへの不安、つまり一種の「社会的」不安にすぎないからである。 幼児の場合にはこれ以外の状況を考える余地はまったく無いが、大人の場合にも、父親ないしは両親のかわりにかなり大きな人間集団が登場するということ以外、すこしも変わらないことが多い。


だから、普通は大人も、自分に楽しみを与えてくれそうな悪事を、自分にたいして優位に立つ他者の耳に入ることは絶対にないとか、入ったところでその他人は自分に手出しできないことが確かでさえあれば、平気でやってのけるのであって、見つかるかどうかが不安なだけである。現代社会は、いわゆる大人の「良心」の水準なるものは一般にこの程度のものと考えておく必要がある[Darum gestatten sie sich regelmäßig, das Böse, das ihnen Annehmlichkeiten verspricht, auszuführen, wenn sie nur sicher sind, daß die Autorität nichts davon erfährt oder ihnen nichts anhaben kann, und ihre Angst gilt allein der Entdeckung. Mit diesem Zustand hat die Gesellschaft unserer Tage im allgemeinen zu rechnen.]

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ不満』第7章、1930年)





◼️皆殺し欲動をいかに抑えうるか

私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。

いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。

Die Schicksalsfrage der Menschenart scheint mir zu sein, ob und in welchem Maße es ihrer Kulturentwicklung gelingen wird, der Störung des Zusammenlebens durch den menschlichen Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb Herr zu werden. In diesem Bezug verdient vielleicht gerade die gegenwärtige Zeit ein besonderes Interesse. 

Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten. Sie wissen das, daher ein gut Stück ihrer gegenwärtigen Unruhe, ihres Unglücks, ihrer Angststimmung.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)




◼️原人間は悪魔

人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質であり、ある種の根源的な欲求の充足をめざすものである[daß das tiefste Wesen des Menschen in Triebregungen besteht, die elementarer Natur, bei allen Menschen gleichartig sind und auf die Befriedigung gewisser ursprünglicher Bedürfnisse zielen. ]〔・・・〕

戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen. ](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)

人間の原始的、かつ野蛮で邪悪な衝動(欲動)は、どの個人においても消え去ったわけではなく、私たちの専門用語で言うなら、抑圧されているとはいえ依然として無意識の中に存在し、再び活性化する機会を待っています。[0die primitiven, wilden und bösen Impulse der Menschheit bei keinem einzelnen verschwunden sind, sondern noch fortbestehen, wenngleich verdrängt, im Unbewußten, wie wir in unserer Kunstsprache sagen, und auf die Anlässe warten, um sich wieder zu betätigen.](フロイト書簡、Brief an Frederik van Eeden、1915年)


悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年)

抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)

(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)




◾️現代文明は偽善

文明社会は、善い行為を要求するが、その行為の基礎となっている欲動については意に介さない。そのためこの社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といって彼らが本性から服従したわけではない。

Die Kulturgesellschaft, die die gute Handlung fordert und sich um die Triebbegründung derselben nicht kümmert, hat also eine große Zahl von Menschen zum Kulturgehorsam gewonnen, die dabei nicht ihrer Natur folgen.(…)

文明の圧迫は、病的な結果をもたらすことこそないにしても、性格形成の不全を起こしたり、制止された諸欲動を一触即発の状態においたりする。このような状態の欲動は、しかるべき機会さえあれば、その充足へと爆発するものなのである。つねに規範通りに反応することを強いられている者は、その規範が彼の欲動諸傾向を表わしてない以上、心理学的に見れば分不相応の生き方をしているのであり、それゆえ客観的には偽善者とよばれてしかるべきである。ここで、その規範と欲動傾向との違いが、その人間にはっきり意識されていようといまいと、それは問題ではない。現在のわれわれの文明が、この種の偽善者をつくりあげることをひとかたならず助けていることは、否定しえない事実である。あえて主張するならば、現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実に基づいて生きようと企てようものなら、その文明は広範囲における修正を余儀なくさせられるだろう。

Der sonstige Druck der Kultur zeitigt zwar keine pathologische Folgen, äußert sich aber in Charakterverbildungen und in der steten Bereitschaft der gehemmten Triebe, bei passender Gelegenheit zur Befriedigung durchzubrechen. Wer so genötigt wird, dauernd im Sinne von Vorschriften zu reagieren, die nicht der Ausdruck seiner Triebneigungen sind, der lebt, psychologisch verstanden, über seine Mittel und darf objektiv als Heuchler bezeichnet werden, gleichgiltig ob ihm diese Differenz klar bewußt worden ist oder nicht. Es ist unleugbar, daß unsere gegenwärtige Kultur die Ausbildung dieser Art von Heuchelei in außerordentlichem Umfange begünstigt. Man könnte die Behauptung wagen, sie sei auf solcher Heuchelei aufgebaut und müßte sich tiefgreifende Abänderungen gefallen lassen, wenn es die Menschen unternehmen würden, der psychologischen Wahrheit nachzuleben.

(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)




◼️自我はエスに服従する下男

自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)

エスはまったくアモラル(非道徳)であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


自我はただ単にエスの助力者であるだけでなく、エスに服従する下男であり、主人の愛をこいねがう。できることなら、自我はエスとのよい間柄をもとうとし、エスの無意識的な命令を自我の前意識的な合理化でおおい、たとえエスが頑固でゆずらないときでも、現実の警告にたいしてエスが従順なようにみせかける。自我はエスと現実との葛藤、できることなら超自我との葛藤をももみ消してしまおうとする。自我はエスと現実との中間の位置をしめるので、しばしば、追従者、日和見主義者、嘘言者になろうとする誘惑に負けてしまう。ちょうど、政治家がりっぱな識見をもちながら、公衆の意見をおもんぱかって主張を変えるようなものである。

Es (das Ich) ist nicht nur der Helfer des Es, auch sein unterwürfiger Knecht, der um die Liebe seines Herrn wirbt. Es sucht, wo möglich, im Einvernehmen mit dem Es zu bleiben, überzieht dessen ubw Gebote mit seinen vbw Rationalisierungen, spiegelt den Gehorsam des Es gegen die Mahnungen der Realität vor, auch wo das Es starr und unnachgiebig geblieben ist, vertuscht die Konflikte des Es mit der Realität und, wo möglich, auch die mit dem Über-Ich. In seiner Mittelstellung zwischen Es und Realität unterliegt es nur zu oft der Versuchung, liebedienerisch, opportunistisch und lügnerisch zu werden, etwa wie ein Staatsmann, der bei guter Einsicht sich doch in der Gunst der öffentlichen Meinung behaupten will.

(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


エスとはもちろん《エスの欲動蠢動[Triebregung des Es]》(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)である。

欲動蠢動、この蠢動は、刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである[ « Triebregung  »… la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute.](Lacan, S10, 14  Novembre  1962)