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2025年12月14日日曜日

資本主義とは何か(岩井克人)

 

巷間でときに「資本主義の終わり」という話がされるのを耳にするが、資本の論理としての、リアルな資本主義自体は決して終わらない。こう言ってもいい、人間の間で交換がある限りは資本主義は終わらない、と。

以下、岩井克人による「資本主義とは何か」をめぐる文をいくつか掲げる。


◼️岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年)




◼️『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より

【二つの資本主義:資本の主義/資本の論理】 (イデオロギーとしての資本主義/現実としての資本主義)

岩井克人)じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。


実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】

そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。


と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。


社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】

……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。


それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(柄谷行人・岩井克人対談集『終りなき世界』1990年)




◼️岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年

存在と意識は乖離する。現実と理念とは乖離するといってもよいだろう。それは資本主義にかんしても同様である。それゆえ、われわれは、資本主義の「理念」を資本主義の「現実」と区別することからはじめてみよう。


資本主義の「理念」――それは、古典派経済学・マルクス経済学・新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて想定してきた教科書的な資本主義像のことである。そして、その最初の本格的な描き手は、いうまでもなくいま全世界で盛大に没後二百年を記念されているあのアダム・スミスにほかならない。


市場で売り買いされる商品の価格は、日々の需給の条件によってはげしく変動している。だが、スミスは、この一見混沌とした市場価格の動きが、あたかも神の見えざる手にみちびかれるように自然価格に向かっていく傾向をもっていると論じたのである。ここでスミスのいう自然価格とは、商品生産のために投じられた生産要素がすべて正常な報酬率を支払われているときの価格であり、人間の経済活動を究極的に支配する唯一普遍の自然法則を体現したものであるとされる。


「見えざる手」の発見ーーそれは、資本主義をひとつの価格体系によって究極的に支配されている閉じたシステムとみなす、資本主義の「理念」の誕生であった。それは同時に、混沌とした経済現象の背後にある合理的な法則性を見いだす「科学」としての「経済学」の誕生でもあったのである。


その後リカードやマルクスは、スミスの自然価格論を労働価値説におきかえ、商品の価格を生産のために直接間接に投入される人間労働の大きさによって究極的に規定することになる。また、ワルラス、メンガー、ジェヴォンズによって創始された新古典派経済学は、スミスの自然価格を均衡価格と解釈しなおし、消費者の主体的な選好を考慮した限界原理をもちいて決定しなおすことになる。

もちろん、資本主義は資本の蓄積のために利潤を必要とする。それゆえ問題は、単一の価格体系に支配されている閉じたシステムから、いかに正の利潤が生みだされるかを示すことにある。一方のリカードやマルクスは、その源泉を人間労働の剰余価値生産にもとめた。産業革命によって飛躍的に向上した労働生産性により、資本家は労働者にみずから消費する商品の価値以上の価値をもつ商品を生産させうるようになったというのである。他方の新古典派経済学は、利潤率は長期的には利子率に等しくなるとし、この利子率の水準を消費者の時間選好の代価として決定することになる。だが、この二つの経済学派がいかに対立していようとも、いずれも資本主義を閉じたシステムとみなすスミスの「理念」を継承している点では変わりはない。


そして、皮肉なことに、この資本主義の「理念」のもっとも忠実な信奉者であったのは、ほかならぬ社会主義であったのである


もし混沌とした経済現象の背後に合理的な法則性が存在しているとするならば、その法則性を意識的に支配する可能性がうまれることになる。事実、市場の「見えざる手」は、この法則性を無政府的に作用するたんなる平均として実現しているにすぎない。


社会主義とは、この市場の無政府性を廃棄し、中央集権的な国家統制のもとで、労働をはじめとする生産要素の社会的な配分を資本主義以上に「合理」的におこなうことを意図したものである。それは「見えざる手」の実在を信じ、それをいわば「見える手」におきかえる試みとして解釈することができるだろう。その意味で、社会主義とは資本主義の「理念」の真の落とし子にほかならない。


だがじつは、「現実」としての資本主義とは、資本主義の「理念」に根本的に対立するものなのである。

(岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年『二十一世紀の資本主義論』所収)




◼️同「資本主義「理念」の敗北」1990年

資本主義の歴史は古い。それは「ノアの洪水以前」においてすら、商人資本主義というかたちで存在していた

古代における商業民族は、マルクスの言葉を借りれば、「いろいろな世界のあいだの隙間にいたエピクロスの神々のように」生きていたのである。たとえばフェニキア人やギリシャ人は、地中海を舞台にして小さな船をあやつり、遠く離れた地域のあいだの商品交換を仲介していた。かれらは、村と村、都市と都市、国と国との隙間にはいりこみ、一方で安いものを他方で高く売り、 他方で安いものを一方で高く売る。二つの地域の価格の差異がそのままかれらの利潤となったのである。

価格の差異を仲介して利潤を生みだすーー古代の商業民族が発見したこの原理こそ、まさに資本主義を「現実」に動かしてきた普遍原理にほかならない。資本主義とは、その意味で、世界がひとつの価格体系によって支配される閉じたシステムでは「ない」ことをその生存の条件とすることになる。実際、古今東西、価格の差異があるところにはどこでも資本主義が介入し、そこから利潤を生みだし続けてきたのである。


そして十八世紀の後半、資本主義はイギリスの国民経済の内側に共存する二つの価格体系を発見する。ひとつは市場における労働力と商品との交換比率(実質賃金率)であり、もうひとつは生産過程における労働の商品への変換比率(労働生産性)である。生産手段から切り放されている労働者が二番目の比率からは排除されているのにたいし、生産手段を所有している資本家はこの二つの比率のあいだをあたかも遠隔地交易の商人のように行き来できることになる。もちろん、そのあいだの差異がそのまま資本家の利潤になるのである。そして、この差異は、農村からの過剰な労働力の流出によって実質賃金率が労働生産性より低く抑えられているかぎり、安定的に存在し続けるものである。


これが、産業資本主義の原理である。それは、商人資本主義といかに異質に見えようとも、差異が利潤を生み出すという資本主義の普遍原理のひとつの形態にすぎないのである。(岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年『二十一世紀の資本主義論』所収)




◼️岩井克人『貨幣論』1993年

わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」 世界へと歴史が跳躍しための「奇跡」のときのことである。その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」 世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。 そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。


金属のかけらや紙の切れはしや電磁気的なパルスといったものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって日々維持しつづける貨幣としての価値モノとしての価値をはるかに上回るこの価値こそ、歴史の始原における大きな「奇跡」とその後にくりかえされた小さな「奇跡」において生みだされた剰余価値の、今ここにおける痕跡にほかならない。それは、「天賦の人権のほんとうの楽園」であるべき「流通または商品交換の場」が、すでにその誕生において剰余価値という原罪を知っていたという事実を、今ここに生きているわれわれに日々教えつづけてくれているのである。


「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。(岩井克人『貨幣論』第5章「危機論」1993年)



岩井克人はケインジアンだが、今引用してきた文章群はマルクスに実に忠実である。



利子生み資本全般はすべての狂気の形式の母である[Das zinstragende Kapital überhaupt die Mutter aller verrückten Formen] (マルクス『資本論』第三巻第五篇第二十四章)


利子生み資本、または古風な形態のものは高利資本と呼んでもよいが、それは、その双生の兄弟である商業資本とともに、資本の大洪水以前の形態に属する。すなわち、資本主義的生産様式よりもずっと前からあって非常にさまざまな経済的社会構成体のなかに現われる資本形態に属する。

Das zinstragende Kapital, oder wie wir es in seiner altertümlichen Form bezeichnen können, das Wucherkapital, gehört mit seinem Zwillingsbruder, dem kaufmännischen Kapital, zu den antediluvianischen Formen des Kapitals, die der kapitalistischen Produktionsweise lange vorhergehn und sich in den verschiedensten ökonomischen Gesellschaftsformationen vorfinden

(マルクス『資本論』第三巻第五篇第三六章)


われわれは、商人資本と利子生み資本とが、資本のもっとも古い形態であることを見た。しかし、通俗の観念においては、利子生み資本が資本本来の形態として表示されるということは、事柄の性質上当然である。商人資本にあっては、一つの媒介的活動が、それが詐欺、労働、その他なんと説明されるにしても、行なわれる。これに反して、利子生み資本においては、資本の自己再生産的性格、自己増殖する価値、剰余価値の生産が、玄妙な性質として純粋に表示される。

Wir haben gesehn, daß das Kaufmannskapital und das zinstragende Kapital die ältesten Formen des Kapitals sind. Es liegt aber in der Natur der Sache, daß das zinstragende Kapital in der Volksvorstellung sich als die Form des Kapitals par excellence darstellt. Im Kaufmannskapital findet eine vermittelnde Tätigkeit statt, möge sie nun als Prellerei, Arbeit oder wie immer ausgelegt werden. Dagegen stellt sich im zinstragenden Kapital der selbstreproduzierende Charakter des Kapitals, der sich verwertende Wert, die Produktion des Mehrwerts, als okkulte Qualität rein dar.

(マルクス『資本論』第三巻第五篇第三六章)




・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital.

(マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)






貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕

G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.)

(マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節)


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt des Kapitals]資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld(…) 

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)


…………


以下、柄谷行人の『トランスクリティーク』からいくつか引用して確認しておこう。


『資本論』は経済学の書である。したがって、多くのマルクス主義者は実は、『資本論』に対してさほど関心を払わないで、マルクスの哲学や政治学を別の所に求めてきた。 あるいは、『資本論』をそのような哲学で解釈しようとしてきた。むろん、私は『資本論』以外の著作を無視するものではない。しかし、マルクスの哲学や革命論は、むしろ『資本論』にこそ見出すべきだと考えている。一般的にいって、経済学とは、人間と人間の交換行為に「謎」を認めない学問のことである。 その他の領域には複雑怪奇なものがあるだろうが、経済的行為はザッハリッヒで明快である、それをベースにして、複雑怪奇なものを明らかにできる、と経済学者は考える。だが、広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。

古典経済学者はすでに商品の価値を労働から見ており、貨幣をたんにそれを標示するものとして見ていた。彼らにとって、貨幣には何の謎もなかった。 産業資本主義にもとづいて考えた彼らは、それ以前の商人資本や金貸し資本を否定していた。しかし、マルクスはむしろ資本を商人資本や利子生み資本から考えようとしたのである。彼は資本の蓄積運動を Gー WーG′ という「一般的」範式において示した産業資本もその例外ではない。さらに、マルクスが注目したのは利子生み(利子付)資本 G-G′である。 マルクスがいうように、これらは「大洪水以前」からある。

《われわれは、商人資本と利子付資本とが、資本のもっとも古い形態であることを見た。しかし、通俗の観念においては、利子付資本が資本本来の形態として表示されるということは、事柄の性質上当然である。商人資本にあっては、一つの媒介的活動が、それが詐欺、労働、その他なんと説明されるにしても、行なわれる。これに反して、利子付資本においては、資本の自己再生産的性格、自己増殖する価値、剰余価値の生産が、玄妙な性質として純粋に表示される。》(『資本論』第三巻第五篇第三六章、向坂逸郎訳、岩波文庫)


しかし、マルクスが「資本のもっとも古い形態」に遡行するのは、歴史的な関心からではない。現に今、商人資本と利子生み資本の範式が存在し、その活動こそが世界を作り変えているからだ。マルクスが古い形態に遡行したのは、産業資本主義の市場経済というイデオロギーを系譜学的に暴くためである。《この定式〔G- G′〕はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G・・・G'は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。(だから資本主義的生産のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ)》(『資本論』第二巻第一篇第一章第四節、鈴木鴻一郎他訳、同前)。そうだとすれば、経済活動は、たんに人々が物やサーヴィスを交換するというようなものではありえない。

若いマルクスは宗教批判から、経済的問題に移行した。しかし、『資本論』において、彼は、経済的世界こそ宗教的世界にほかならないことを見出したのである。彼はいう。《商品は一見したところ、わかりきった平凡な物に見える。だが、これを分析してみると、きわめてめんどうな物、形而上学的な小理屈や神学的な偏屈さでいっぱいの物であることがわかる》(『資本論』第一巻第一篇第一章第四節、鈴木他訳、同前)。たんなる商品に、形而上学と神学の根本問題が潜んでいる。マルクスは『資本論』において、すべて経済学に即して語る。しかし、むしろそのことを通して、彼は他のどこでよりも、形而上学と神学の問題に取り組んでいたのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」PP.288-290)



資本とは自己増殖する貨幣である。マルクスはそれを、まずG - W - G'(貨幣―商品―貨幣)という範式に見いだす。それは商人資本である。それとともに、金貸し資本 G - G' が可能になる。マルクスはこれらを「大洪水以前からある」 資本の形態だといっている。だが、商人資本に見出される範式は産業資本にも妥当する。 産業資本においては、Wの部分が異なるだけだからである。それはマルクスの言い方でいえば、 G - (Pm+A) - G' である (Pmは生産手段、Aは労働力)。 産業資本が支配的になった段階では、商人資本はたんに商業資本となり、金貸し資本は銀行あるいは金融資本となる。だが、資本を考えるためには、 G -W - G'という過程を見ることからはじめるべきである。資本とはたんに貨幣ではなく、こうした変態の過程全体である。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章「移動と批判」P235)


資本は自己増殖するかぎりで資本である。それは人間的「担い手」が誰であろうと、彼らがどう考えようと、貫徹されなければならない。それは個々人の欲望や意志とは関係がない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章 P320)


くりかえしていうが、資本とは G - W - G' (G+⊿G) という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、 他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派経済学においては、資本の自己増殖運動は、 商品の流通あるいは財の生産 = 消費のなかに解消されてしまう。 産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って 「市場経済」という言葉を使う。 彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。


しかし、財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」p323~)



《G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない》とあるが、事実上、剰余価値⊿Gがフェティッシュである。つまり先の岩井克人が《剰余価値の創出という原罪》というとき、「フェティッシュの創出という原罪」である。たぶん柄谷はこの原罪という言い方を好まないだろうが。


近著『力と交換様式』からも一文抜き出しておこう。


交換において、物は《感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう》。商品の価値とは、そのとき物に付着した何かである。《これは、労働生産物が商品として生産されると、ただちにそこに付着するものであり、それゆえ商品生産と不可分のものである》。マルクスはそれをフェティッシュ(物神)と呼んだ。


彼がここに見たのは、商品交換において、「人間の頭脳の産物」であるにもかかわらず、「固有の生命」をもち人間を強いる「力」が存在するという事実である。それがマルクスのいうフェティシズムである。彼がそう述べたのは、それをたんに幻想や迷妄として批判するためではなかった。フェティシズムは交換において存在する”超感覚的”な力を指すが、これがなければ、単純な物々交換さえ成り立たないのだ。マルクスがこのとき、18世紀フランスの思想家ド・ブロスが最初に定式化したフェティシズムという概念を持ちこんだのは、その現象を揶揄するためではなかった。交換の問題を太古の段階に遡って見るためである


マルクスは交換の起源をつぎのような場所に見ていた。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻第一編第二章)。重要なのは、交換が、共同体の内部ではなく、その外にある共同体との間、つまり、見知らぬ、したがって、不気味な他者との接触において始まるということである。だからこそ、そのような交換は、人々のたんなる同意や約束ではない、強制的な”力”を必要としたのである。それがフェティシズムである。


マルクスの考えでは、貨幣はそのような物神性が発展した形態である。そして、それが資本物神となるにいたる過程を論じたのが『資本論』なのだ。しかし、マルクス主義者は、このようなフェティシズム論に必ず言及するにもかかわらず、それを真面目に検討しなかった。特にルカーチ以後、フェティシズムは、「物象化」の問題としていいかえられるようになった。

(柄谷行人『力と交換様式』「序論 1上部構造の観念的な『力』」2022年)


ーー「資本物神」とあるのは、もちろん、先に引用した資本論3巻の《資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]》である。



上の『力と交換様式』の「序論」箇所を読めばすぐ分かるように、『力と交換様式』の別名は「フェティッシュと交換様式」である。



問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。 〔・・・〕

くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕

一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年)


ーー《マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。》(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


我々はみな言語記号を交換している。つまり人はみなフェティシストである。だが柄谷にとってそれは当たり前のことであり、90年代以降の仕事が肝腎だと言っている。



◼️『マルクスその可能性の中心』英語版序文 柄谷行人

Marx:Towards the Centre of Possibility

Foreword Kojin Karatani


以下、邦訳【群像】2020年3月より。

私はすでに『マルクスその可能性の中心』で、「交換」を広い意味で考えていた。ただ、それは言語論的であって、狭義の経済学的な思考を出るものではなかったしかし、九〇年代に、私は交換を、人が通常、交換とみなさないような領域に見いだしたのである。

すでにマルセル・モースは、氏族社会の経済的土台を贈与──お返しという互酬交換に見いだしていた。私はそれを交換様式Aと呼ぶ。これが共同体を構成する「力」をもたらす。さらに私は、国家もまた、国民の自発的な服従-国家による保護という交換によって成り立つと考えた。それを交換様式Bと呼ぶ。武力とは異なる、国家の「力」はそこから来る。それらに対して、通常の商品交換を私は交換様式Cと呼ぶ。ここから、貨幣の「力」が生じるのだ。

以上の三つに加えて、それらを揚棄しようとする交換様式Dがある。これは歴史的には、古代帝国の時代に普遍宗教というかたちをとってあらわれた、いわぼ、神の「力」として。Dは局所的であれ、その後の社会構成体のなかに存続してきた。それはたとえぼ、一九世紀半ばに共産主義思想としてあらわれたのである。マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれぼ、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。



・・・というわけで岩井克人を補足するために柄谷行人のいくつかを掲げるつもりだったのだが、やや別のところに踏み込んでしまった。だが表題は当初のつもりのままにしておく。