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2026年1月28日水曜日

君、人から親切にされて愉快ですか(夏目漱石)

 

まずフロイトの「現代文明は偽善」ーーここでの本題ではないがーーを掲げる。


文明社会は、善い行為を要求するが、その行為の基礎となっている欲動については意に介さない。そのためこの社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といって彼らが本性から服従したわけではない。

Die Kulturgesellschaft, die die gute Handlung fordert und sich um die Triebbegründung derselben nicht kümmert, hat also eine große Zahl von Menschen zum Kulturgehorsam gewonnen, die dabei nicht ihrer Natur folgen.(…)

文明の圧迫は、病的な結果をもたらすことこそないにしても、性格形成の不全を起こしたり、制止された諸欲動を一触即発の状態においたりする。このような状態の欲動は、しかるべき機会さえあれば、その充足へと爆発するものなのである。つねに規範通りに反応することを強いられている者は、その規範が彼の欲動諸傾向を表わしてない以上、心理学的に見れば分不相応の生き方をしているのであり、それゆえ客観的には偽善者とよばれてしかるべきである。ここで、その規範と欲動傾向との違いが、その人間にはっきり意識されていようといまいと、それは問題ではない。現在のわれわれの文明が、この種の偽善者をつくりあげることをひとかたならず助けていることは、否定しえない事実である。あえて主張するならば、現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実に基づいて生きようと企てようものなら、その文明は広範囲における修正を余儀なくさせられるだろう。

Der sonstige Druck der Kultur zeitigt zwar keine pathologische Folgen, äußert sich aber in Charakterverbildungen und in der steten Bereitschaft der gehemmten Triebe, bei passender Gelegenheit zur Befriedigung durchzubrechen. Wer so genötigt wird, dauernd im Sinne von Vorschriften zu reagieren, die nicht der Ausdruck seiner Triebneigungen sind, der lebt, psychologisch verstanden, über seine Mittel und darf objektiv als Heuchler bezeichnet werden, gleichgiltig ob ihm diese Differenz klar bewußt worden ist oder nicht. Es ist unleugbar, daß unsere gegenwärtige Kultur die Ausbildung dieser Art von Heuchelei in außerordentlichem Umfange begünstigt. Man könnte die Behauptung wagen, sie sei auf solcher Heuchelei aufgebaut und müßte sich tiefgreifende Abänderungen gefallen lassen, wenn es die Menschen unternehmen würden, der psychologischen Wahrheit nachzuleben.

(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)



………………


さて、折に触れて掲げてきた柄谷行人の「偽善と露悪」ーー浅田彰の「タテマエとホンネ」ーーがある。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)


ここで漱石自身の文を掲げよう。


近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。〔・・・〕


昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。(夏目漱石『三四郎』1908年)


ーー柄谷の言っているのはこの部分である。


ところで漱石はこの少し後、こうも記している。

「君、人から親切にされて愉快ですか」

「ええ、まあ愉快です」

「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」

「どんな場合ですか」

「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」


「そんな場合があるでしょうか」

「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

「そりゃ……

「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」〔・・・〕


「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」

「どんなのです」

「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(夏目漱石『三四郎』1908年)


先の前半部分はある意味、「月並み」だが、この後半部分は実に心理家漱石の面目躍如だね、安吾は漱石について《かゆい所に手がとゞくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思ふばかり》(坂口安吾「デカタン文学論」)と言っているが、実際、実に見事だ。私はときに、たとえば儒教の教えを連発する人物にこの「最も優美な露悪家」を感じてしまうときがあるがね。


すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。(坂口安吾「デカダン文学論」1946年)



ここでもうひとつ、丸山眞男の「偽善の効果を持つ偽悪」を掲げる。

一般的に申しますと、日本では偽悪というのは、逆説的に、しばしば偽善の効果を持つことがあります。日本の風土では批判的な思考が弱いですから、自分の姿勢をいちばん低くしておいて、どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、寝そべった姿勢は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。そういう安定した位置から、理念とか理想とかを求めようとする、背のびした生き方を嘲笑するというのはよく見られる風景であります。江戸の「町人根性」以来の、これが一つの処世術です。こういうところから、最初に自分のマイナスをさらけだすと、かえって、あいつはなかなかアケスケだとか、人間味がある、なんて褒められる。これが日本の「真心」文化の盾の反面であります。(丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」1985.7



この「どうせおいらはインチキですよ」タイプは、巷間のインフルエンサーと呼ばれる種族にしばしば見られる特徴じゃないかね。


……………



最後にここでの文脈とはいささか外れるが、より一般論として漱石とニーチェ、フロイトを並べておこう。

……しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」 (夏目漱石『こころ』二十八、1914年)


すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ Alles Gute ist eine Verkörperung des Bösen. Jeder Gott ist der Vater eines Teufels. Nietche](ニーチェ遺稿「生成の無垢」November 1882—Februar 1883 5

悪魔とは七日目ごとの神の息ぬきにすぎない……Der Teufel ist bloß der Müßiggang Gottes an jedem siebenten Tage..(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなによい本を書くのかーー善悪の彼岸の節」1888年)


人間にはもともと、いわば生まれつき善悪を区別する能力があるなどという説は無視していい。 その証拠に、いわゆる「悪」は、自我にとってぜんぜん不利でも危険でもない場合も多く、かえって反対に、自我にとって望ましいもの、楽しいものであることもある。つまり、ここには自我以外の力が働いており、何が善であり何が悪であるべきかを決定するのはこの外部の力なのだ。人間が自身のイニシアティブでは同じ結論に達しなかっただろうということを考えると、人間がこの外部の力に屈するについては、それなりの動機があるにちがいない。そしてその動機はすぐ見つかる。それは、人間が無力で他人に依存せざるをえない存在だという事実であり、他人の愛を失うことへの不安と名づけるのが一番適当だ。自分が依存せざるをえない他人の愛を失うことは、さまざまな危険にたいする保護からも見離されることを意味するが、それよりもまず、自分にたいして優位に立つこの他人が、懲罰という形で自分にその優越性を見せつける危険に身を曝すことになる。すなわち、そもそも「悪」とは、そんなことをすればもう愛してはやらないぞと言われてしまうようなものであり、この愛を失うことへの不安から、われわれは誰しも「悪」を避けざるをえないのだ。すでに「悪」をしたか、それともこれからやるつもりであるかの区別が重要でないというのもここからきている。どちらの場合にも、危険なのはこの優位に立つ他人にそのことを知られてからの話で、知られてしまったら、どちらの場合にも同じ制裁が加えられるだろう。


こういう状態は、ふつう「良心の疚しさ」と呼ばれているが、本当はこの名称は正しくない。というのは、この段階での罪の意識は、明らかに愛を失うことへの不安、つまり一種の「社会的」不安にすぎないからである。 幼児の場合にはこれ以外の状況を考える余地はまったく無いが、大人の場合にも、父親ないしは両親のかわりにかなり大きな人間集団が登場するということ以外、すこしも変わらないことが多い。だから、普通は大人も、自分に楽しみを与えてくれそうな悪事を、自分にたいして優位に立つ他者の耳に入ることは絶対にないとか、入ったところでその他人は自分に手出しできないことが確かでさえあれば、平気でやってのけるのであって、見つかるかどうかが不安なだけである。現代社会は、いわゆる大人の「良心」の水準なるものは一般にこの程度のものと考えておく必要がある。


Ein ursprüngliches, sozusagen natürliches Unterscheidungsvermögen für Gut und Böse darf man ablehnen. Das Böse ist oft gar nicht das dem Ich Schädliche oder Gefährliche, im Gegenteil auch etwas, was ihm erwünscht ist, ihm Vergnügen bereitet. Darin zeigt sich also fremder Einfluß; dieser bestimmt, was Gut und Böse heißen soll. Da eigene Empfindung den Menschen nicht auf denselben Weg geführt hätte, muß er ein Motiv haben, sich diesem fremden Einfluß zu unterwerfen. Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden. Verliert er die Liebe des anderen, von dem er abhängig ist, so büßt er auch den Schutz vor mancherlei Gefahren ein, setzt sich vor allem der Gefahr aus, daß dieser Übermächtige ihm in der Form der Bestrafung seine Überlegenheit erweist. Das Böse ist also anfänglich dasjenige, wofür man mit Liebesverlust bedroht wird; aus Angst vor diesem Verlust muß man es vermeiden. Darum macht es auch wenig aus, ob man das Böse bereits getan hat oder es erst tun will; in beiden Fällen tritt die Gefahr erst ein, wenn die Autorität es entdeckt, und diese würde sich in beiden Fällen ähnlich benehmen. Man heißt diesen Zustand »schlechtes Gewissen«, aber eigentlich verdient er diesen Namen nicht, denn auf dieser Stufe ist das Schuldbewußtsein offenbar nur Angst vor dem Liebesverlust, »soziale« Angst. Beim kleinen Kind kann es niemals etwas anderes sein, aber auch bei vielen Erwachsenen ändert sich nicht mehr daran, als daß an Stelle des Vaters oder beider Eltern die größere menschliche Gemeinschaft tritt. Darum gestatten sie sich regelmäßig, das Böse, das ihnen Annehmlichkeiten verspricht, auszuführen, wenn sie nur sicher sind, daß die Autorität nichts davon erfährt oder ihnen nichts anhaben kann, und ihre Angst gilt allein der Entdeckung.1) Mit diesem Zustand hat die Gesellschaft unserer Tage im allgemeinen zu rechnen. 

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ不満』第8章、1930年)



夏目漱石(1867 - 1916年)とフロイト(1856- 1939年)は同時代人であるのをご存知であろうか。



「日本の読書会級だなんて自分で思つてるんだろう?しかしてめえたちはな、漱石の文学を読んだことなんざ一度だつてねえんだぞ。てめえたちにやそもそも漱石なんか読めやしねえんだ。漱石つてやつあ暗いやつだつたんだ。陰気で気違いみてえに暗かつたんだ。」(中野重治「小説の書けぬ小説家」1937年)


ーー漱石のとてつもない暗さが最も露顕しているのは晩年の『道草』と『明暗』だろうね、


最近、フロイトの「自伝」の翻訳が出たので、読んでみた。これは、努めて感情を避けて、自分の学説の歴史を記述したものだが、鮮かに現れていたのは、彼の並はずれて頑強な、陰気な人柄であった。それは何処から現れ出たものだろうか。これは難しい問題だ。しかし、理性的意識の優越と支配とに対する彼の呪詛が、一般に或は実際に、人々の心の上にどう作用したかという事もかなり陰気な不透明な性質のもののように思われる。

(小林秀雄「歴史」1959年)



と引用したら、小林秀雄のニーチェ評を思い起こしたのでついでに貼り付けておこう。


反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。彼は妹への手紙で言っている、「自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ」と。ニイチェがまだ八つの時、学校から帰ろうとすると、ひどい雨になった。生徒たちが蜘蛛の仔を散らすように逃げ還る中で、彼は濡れないように帽子を石盤上に置き、ハンケチですっかり包み、土砂降りの中をゆっくり歩いて還って来た。母親がずぶ濡れの態を咎めると、歩調を正して、静かに還るのが学校の規則だ、と答えた。発狂直前のある日、乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた。ちなみに彼はこういうことを言っている、「私は、いつも賑やかさのみに苦しんだ。七歳の時、すでに私は、人間らしい言葉が、決して私に到達しないことを知った」。およそ人生で宗教と道徳くらい賑やかな音を立てるものはない。ニイチェは、キリストという人が賑やかだ、と考えたことは一度もない。(小林秀雄「ニイチェ雑感」1950 年)


おっと、フロイトのニーチェ評が向こうからやって来たーー《ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう[Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.]》(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議1908 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung


……………


※附記

(吉本 古井さんは、漱石の作品のなかで何がいちばんお好きですか。) 

私は『道草』です。短いものだと、『永日小品』です。〔・・・〕


漱石という人は、思いのほか、書きたいことをずけずけ書いていく人ではないようです。読者に対するサービス精神がある。あれこれ楽しませながら作品の中に導きたいという、まあ、教育者的な配慮があって、それで、どの作品も回り道をしているんじゃないでしょうか。


『明暗』あたりになるともう、そういう堪え性はだいぶ消えている。『道草』では何分にも自分の生い立ちを書こうとするから、回り道もへったくれもないわけで、そのほかの小説には、ずいぶん前置きが多いですね。人によっては回り道の部分のほうが面白いという人もいますし。

『道草』は自分の生い立ちのことを書くために、ある程度、客観的な距離を最初から定めているので、わりあい小説らしい構図は出来ていると思うんです。『明暗』にまづ行きますと、これは漱石の分身ではない何人もの人物を出している。


けれども、実はここでもう一度、漱石は自分の業のなかに陥っています。この人物たちが、や っぱりお互いに似ているんです。その偏執、マニアックなところとか、知らないということを恐れるところとか。


それから、知っているということが、あまりにもそれにこだわるものだから、かえって知らないも同然になるという、共通の傾向を、主人公を含めて女性たちも等しくもっている。その堂々巡りからどうしても抜けられないうちに作者の体力が尽きた。そんなふうに思っていますけど。

(古井由吉ー吉本隆明対談『小説家の帰還』)