前回、「毒舌のすすめ」という投稿をしたところで、シオランを思い起こしたよ
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ニーチェ、プルースト、ボードレール、ランボーが流行の波に流されず生き延びたのは、彼らの無私な残酷さ、悪魔的な鋭利さ、そしてその毒舌の惜しみなさのおかげである。作品を長続きさせ、時代遅れにさせないのは、その凶暴さである。根拠のない主張だって?福音書の威信を考えてみたまえ。あの攻撃的で、毒に満ちた書物を。 |
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(エミール・ミハイ・シオラン『苦渋の三段論法』Emil Mihai Cioran, Syllogismes de l'amertume, 1952) |
たしかに毒舌は難しいんだよ、特に悪魔的な鋭利さや凶暴さがないとな。ボクなんかそんなものは僅かしか持ち合わせていないから、真似しようと思っても賤民の臭い息になっちまうからな。
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およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽となり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。 Es giebt kein härteres Unglück in allem Menschen-Schicksale, als wenn die Mächtigen der Erde nicht auch die ersten Menschen sind. Da wird Alles falsch und schief und ungeheuer 権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ!」とーー。 Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -〔・・・〕 ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気! allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem -: pfui, unter dem Gesindel leben, - pfui, unter dem Gesindel die Ersten zu bedeuten! Ach, Ekel! Ekel! Ekel! |
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(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」1885年) |
ま、でも「見よ、われのみが徳だ!」と絶叫しない限りで、少しずつ毒舌の修行をしないとな、日本だけじゃなく少なくとも集団的西側の権力者が「人間であるよりは畜類」のこの21世紀に於いては。
ちなみにニーチェにとっては次のメンツも臭い息吐いてる対象だから安心したらいいよ。
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私の我慢ならない者ども。 ――セネカ、すなわち、徳の闘牛士。 ――ルソー、すなわち、不純な自然的なものというかたちをとった自然への復帰。 ――シラー、すなわち、ゼッキンゲンの道徳のラッパ手。 ――ダンテ、すなわち、墓穴のなかで詩をつくる鬣狗。 ――カント、すなわち、英知的知性としての偽善的口調 cant。 ――ヴィクトル・ユゴー、すなわち、無意味の大海のほとりに立つ大灯台。 ――リスト、すなわち、流麗さの学校 ――ご婦人たちによれば。 ――ジョルジュ・サンド、すなわち、乳のはった豊満、平たく言えば、「美しいスタイル」の乳牛。 ――ミシュレ、すなわち、上衣を脱ぎすてる感激。 ――カーライル、すなわち、辞退した昼食としてのペシミズム。 ――ジョン・スチワート・ミル、すなわち、侮辱的な明晰さ。 ――ゴングール兄弟、すなわち、ホメロスと戦う二人のアイアス。オッフェンバックの音楽。 ――ゾラ、すなわち、「悪臭を発する歓び。」 ーー Meine Unmöglichen. - Seneca: oder der Toreador der Tugend. - Rousseau: oder die Rückkehr zur Natur in impuris naturalibus. - Schiller: oder der Moral-Trompeter von Säckingen. - Dante: oder die Hyäne, die in Gräbern dichtet. - Kant: oder cant als intelligibler Charakter. -Victor Hugo: oder der Pharus am Meere des Unsinns. - Liszt: oder die Schule der Geläufigkeit - nach Weibern. - George Sand: oder lactea ubertas, auf deutsch: die Milchkuh mit "schönem Stil". - Michelet: oder die Begeisterung, die den Rock auszieht… Carlyle: oder Pessimismus als zurückgetretenes Mittagessen. - John Stuart Mill: oder die beleidigende Klarheit. - Les fréres de Goncourt: oder die beiden Ajaxe im Kampf mit Homer. Musik von Offenbach. - Zola: oder die Freude zu stinken. - |
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(ニーチェ「或る反時代的な人間の遊撃」第1節、『偶像の黄昏』所収、1888年) |
ニーチェほど鼻は効かないボクでさえ、ツイッター眺めている範囲で嘔吐感を抱かないヤツはいないからな。
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最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……[so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...] わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている[Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt.] |
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そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのだろうか」第8節、1888年) |
キミたちはよく平気でいられるな、内臓の悪臭を振り撒きながら互いに湿った瞳を交わし合い頷き合うツイッター社交界ムラに。実に感心するよ。ふつうの感性があればどうしたって、「ああ、ツイッターの青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気!」という具合になる筈だがな
蚊居肢子晩酌シテ酔ヘリ。
寝ニ就カントスルニ猶早シ、書ヲ読マントスルニ亦懶シ。
鳥語ニ耳ヲ傾ケントついつたあノ窓ヲ覘クモ欠伸スル而已。
毫モ感ズル所無シ。
諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちえト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。
蚊居肢子喟然トシテ嘆ジテ曰ク、衆何ノ為メニ囀ルヤ。
其ノ無用ナル之レヲ号ケテ屎ト云フモ可ナリ、屁ト云フモ亦可ナリ。
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もちろんこれは稀代の毒舌家で名高かった成島柳北のパクリだからな |
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「祭舌文」 明治十年二月十三日、濹上子斎戒沐浴シ、 恭シク一壜ノ葡萄酒ト一臠ノ牛肉トヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。 其文ニ曰ク、嗚呼吾ガ心ハ謹慎ニシテ吾ガ胆ハ縮小ナリ。 生来未ダ嘗テ狂暴悖戻ノ事ヲ為サズ。 然ルニ汝三寸ノ贅物妄リニ喋々トシテ遂ニ意外ノ禍害ヲ招キ、 吾ヲシテ飛ンダ迷惑ヲ為サシメタル。 |
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「他山の石 」 濹上子晩酌シテ酔ヘリ。 寝ニ就カントスルニ猶早シ、 書ヲ読マントスルニ亦懶シ。 我輩ガ常ニ筆墨ヲ弄シテ日ニ数千百字ヲ駢列スルモ、 未ダ曾テ一人ノ笑ヲ皷シ一人ノ泣ヲ醸スコト能ハズ、 其ノ無用ナル之レヲ号ケテ 屎ト云フモ可ナリ、 屁ト云フモ亦可ナリ。 |
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「土用干ノ記 」 阮氏ノ褌ヲ曝スハ少シク激ニ失シテ長者ノ風無シ。 郝生ノ腹ヲ曝スハ甚ダ傲ニ失シテ君子ノ笑ヲ免レズ。 三伏ニハ唯ダ世俗ニ随ヒ、曝ス可キ物ヲ曝スゾ善ケレ。 強ヒテ奇ヲ好ムハ何ノ用ニカ立ツ可キヤ。 |
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「阿房山賦」 妓ヲ揚ゲル玉ヲシテ玉川ノ砂利ヨリモ多ク、 妾ニ投ズル金ヲシテ深川ノ薮蚊ヨリモ多ク、 了簡ノ浮々シタルハ海ニ在ル水母ヨリモ軽ク、 鼻ノ下ノ延ビ過ギタルハ電信ノ張鉄ヨリモ長ク、 智慧分別ハ雨夜ノ蛍火ヨリ少ナク、 行跡ノ見苦シキハ折助ノ附合ヨリ甚シカラシム。 |
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「忙ノ説 」 濹上子性甚ダ閑ヲ好ム。 而シテ一歳ノ中閑ヲ得ルノ日ハ稀ニシテ毎ニ忙ニ苦シム。 窃カニ謂フ新年ハ少シク閑ヲ貪リ以テ自カラ慰セント。 然ルニ一日ヨリ今日ニ至ル迄一日ノ閑無ク一刻ノ閑無ク困却極レリ。 家ニ在レバ故交新知来タリテ応接暇無ク、 社ニ出レバ論士説客来タリテ送迎ニ労ス。 之ヲ謝セントスレバ無礼不敬ヲ以テ譴責サレンヲ恐ル。 之ヲ謝セザレバ新聞ノ手伝ヲ為シ火之元ヲ見廻ハル能ハズ。 朝ヨリ暮ニ至ル迄息ヲ休ムル間無シ。 |
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「ごく内ばなし」 獄内ニ在テハ意ヲ一身ノ安危存亡ニ注ス。 何ノ暇カ能ク心ヲ男女ノ欲ニ動カサン。 偶々 洗濯婆々ノ皺面ヲ見テハ遙ニ老妻ヲ想ヒ、 囚繋女子ノ垢顔ヲ拝シテハ誤テ青楼ノ尤物【ベツピン】ナリト疑フノミ 〔・・・〕 新鮮ノ空気ニ触ルヽこと稀レニ、身ヲ垢衣汗物ノ中ニ埋メ、穢臭ノ鼻孔ヲ穿ツ |
………………
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新政府組閣の際〔・・・〕、木戸が岩倉(議定)の使いとして、向島の成島邸に赴き「この際ぜひ文部卿を……」と懇請しているが、柳北はキッパリこれを断わっている。彼としては「旧幕臣として仕えたじぶんだ、なにも今更いなか侍どもと……」といった気持があったであろう。いわば周の粟は食まずの心境か、薩長土肥のむかしの傍若無人ぶりが柳北には目障りだったものとみえる。(田坂長次郎「成島柳北と英学」) |
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荷風『断腸亭日乗』昭和三年二月十二日。……終日柳北先生の『獄中詩稾』および『禁獄絵入新聞』二葉を謄写す。獄中無聊のあまり囚人の用る浅草紙に都都一狂歌戯文などを書し獄丁の目をぬすみて回覧せしものなり。当時の文士は鉄窓の下にありても余裕綽々たることかくの如し。画工暁斎も獄に投ぜられるを機となし獄裏の光景を写生したりき。これを野依らの如き今日の操觚者に比すれば人物霄壌の別察するに余りあり。 |