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2026年9月12日土曜日

最後のどたん場での「裂かないで」

 



いやあ、そこのキミそっくりじゃないか、あのときの。


上のGIFは、シンガポールの合唱団によるヨハネの No. 27bの合唱「これは裂かないで」からだが、無理しても裂いとくべきだったなあ、半世紀経った今でも心残りだよ。


🎵

J.S. BACH "Lasset uns den nicht zerteilen" – St. John Passion | RED DOT BAROQUE & YST CONSERVATORY



ボクはこのヨハネの1分半ばかりの合唱に特別の愛を捧げており、以前にもいくつかの演奏を掲げたが、だいたいどれを聴いてもいいね。


スイスローザンヌのレストランBrasserie de Montbenonでのフラッシュモブの「これは裂かないで」の映像もあって、レストランで食事中にこの合唱が突然降ってきたら、ほとんど「卒倒」するだろうな。それぐらい特別の曲だね。

🎵

Flashmob : Passion St Jean - Bach,  (N° 27b Lasset uns)



しかしさっきのシンガポールの乙女の表情はいっそう格別だな、あまりにものノスタルジーで、何度見ても胸キュンとなるよ。


やっぱりここは加藤周一の次の文だな。


人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。


 再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』1985年)


もっとも重要なのはギリギリのところでヤラなかった女なんだろうがね。


若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。Combien y en a-t-il dans nos souvenirs, combien plus dans notre oubli, de ces visages de jeunes filles et de jeunes femmes, tous différents, et auxquels nous n'avons ajouté du charme et un furieux désir de les revoir que parce qu'ils s'étaient au dernier moment dérobés ?

(プルースト「ゲルマントのほう」)



とはいえよく言うよ、あんな最後のどたん場で。「裂かないで」なんて。


《我、汝の裂け目がただ一筋の線にあらざるならば、死をもいとわじ[Rimula, dispeream, ni monogramma tua est.]》(テオドール・ド・ベーズ Théodore de Bèzeーーモンテーニュ『エッセイ』第3巻第5章)ーって感じだったのに。