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人はみな病気だよ、なんたってみな超自我をもってるからな、 |
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私は病気だよ。というのは、皆と同じように、超自我をもっているからな[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]( Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977) |
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で、超自我はマゾヒズム、つまり現実界の享楽の原因だ、 |
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超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, l6 janvier 1963) |
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死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
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享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il (Freud) l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
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つまりは自己破壊欲動の原因だ。 |
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超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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ーー自己破壊欲動とはマゾヒズム➤死の欲動である。 |
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか! es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. |
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(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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ーー通常は自己破壊しないために他者破壊するんだよ。ツイッターでもこれやってるヤツをよく見るだろ? |
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私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。 (中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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他者破壊ではなく自己破壊に身を委ねているヤツもいるが、生物学的死まで行かなくても、次の症状はしばしば見るだろ? |
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抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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ーー中井久夫は《解離された自己破壊衝動の囁き》と言ってるが、事実上これが超自我の声だよ。 |
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超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi … apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. ](ラカン, S10, 19 Juin 1963) |
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私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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超自我の声は、フロイト版なら次の文だな、 |
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超自我が、耳に聴かれたものに由来したことを否定することは不可能であり、それは自我の一部であって、この言語表象 (概念、抽象)から意識に通じている。しかし、その備給エネルギーは、聴覚、教育、講義から超自我のこの内容に注入されるのではなく、エスの源泉からそそがれる。 das Über-Ich auch seine Herkunft aus Gehörtem unmöglich verleugnen kann, es ist ja ein Teil des Ichs und bleibt von diesen Wortvorstellungen (Begriffen, Abstraktionen) her dem Bewußtsein zugänglich, aber die Besetzungsenergie wird diesen Inhalten des Über-Ichs nicht von der Hörwahrnehmung, dem Unterricht, der Lektüre, sondern von den Quellen im Es zugeführt.〔・・・〕 メランコリーに目をむけると、意識を占有した非常に強い超自我が、自我にむかって無慈悲に激怒し、あたかも、その個人の中のあらんかぎりのサディズムを発揮するかのようにふるまうことが認められる。サディズムに関するわれわれの見解にしたがえば、破壊的成分が超自我の中に巣喰って、自我に敵対したということができよう。超自我の中で支配しているものは、死の欲動の純粋培養のようなものであって、自我が躁病に転変することによって、あらかじめその暴君をふせがないと、しばしば本当に自我を死に駆り立てることがある。 Wenden wir uns zunächst zur Melancholie, so finden wir, daß das überstarke Über-Ich, welches das Bewußtsein an sich gerissen hat, gegen das Ich mit schonungsloser Heftigkeit wütet, als ob es sich des ganzen im Individuum verfügbaren Sadismus bemächtigt hätte. Nach unserer Auffassung des Sadismus würden wir sagen, die destruktive Komponente habe sich im Über-Ich abgelagert und gegen das Ich gewendet. Was nun im Über-Ich herrscht, ist wie eine Reinkultur des Todestriebes, und wirklich gelingt es diesem oft genug, das Ich in den Tod zu treiben, wenn das Ich sich nicht vorher durch den Umschlag in Manie seines Tyrannen erwehrt. |
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(フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
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事実上、超自我の声はエスの声であって、よほど耳が遠いヤツじゃなければ、皆聞こえてくるよ。 |
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超自我はエスに起源がある[das Über-Ich, das aus dem Es stammt ]〔・・・〕 自我における矛盾は、自我は抑圧によってエスにたいしては門戸を閉ざしているが、超自我からの影響にはまったく開放されたままになっていることを証している[der Widerspruch im Ich beweist uns nur, daß es sich mittels der Verdrängung gegen das Es verschlossen hat, während es den Einflüssen aus dem Über-Ich voll zugänglich geblieben ist ](フロイト『制止、症状、不安』第5章1926年) |
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既にニーチェが「人間よ、エスの声をよく聴け!」と言ってるがね。 |
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?おお、人間よ、よく聴け! - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
ここでは「人間よ、超自我の声をよく聴け!」と言っておくよ、耳を閉じていなかったら自ずと聞こえてくる筈だよ。
なおここでの超自我は「前エディプス的超自我」であり、フロイトの超自我は「エディプス的超自我」だけだと一般ではいまだ誤解されていることが殆どだが、そうではないことに要注意[参照]。
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例えば、坂口三千代さん曰くの「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」という安吾の言葉は母なる超自我の声ではなかったか、と私はひそかに睨んでいる。 |
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彼が暴れ始めると相変わらず私は体が震えて足が変に軽くなってフワフワして来てしまう。もう、涙がふきこぼれてものも言えないということはなくなったが、馴れるということは絶対にできなかった。そのたびに私の心は宙に飛びあがってしまうのだ。〔・・・〕 彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。〔・・・〕 |
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睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた。〔・・・〕 十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。 「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」 そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代「クラクラ日記」1967年) |
かつまた、ニーチェの『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」に現れる《私の恐ろしい女主人 [meiner furchtbaren Herrin]》の声[参照]も母なる超自我の声だろう、と。
……………
❖附記
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真の作家ーーいや作家だけでないだろうがーー彼らは究極的には自己破壊に向かう場合があるように見える。 以下、中井久夫の「創造と癒し序説」から抜き出しておこう。 |
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「もし私が書かなかったならば私はとめどもなく憂鬱になってしまっていただろう」とドイツの作家トーマス・マンは晩年に語っている。そして、彼は午前中、きっかり正午まで書斎にこもって人を寄せつけなかった。創作の合間にピアノをひいて、その音だけが扉の外に漏れてきたから、娘のエリカ・マンは、お父さんの音楽の時間だとずっと思っていたという。
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、一八九四年、彼が精神病的とさえ憶測される二年間を通過した後、生涯、朝四時に独り起きだしてコーヒーを沸かし、八時まで、現在「カイエ」と称される膨大なノートを執筆した。詩作も、この暁の純粋で孤独な時間になされた。〔・・・〕 |
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私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。 むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。〔・・・〕 しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。 芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。 |
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作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。 一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。 一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。 |
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「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。 |
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「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。 |
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第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。 |
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第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。 |
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サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」1996年) |
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ひとつだけ補足しておけば、「サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして…」云々とあるが、確かにフロイトは前中期の段階では昇華を賛美しているが、後年は次の如し。 |
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人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。 抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
