窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)
デュシャン、Étant donnés |
鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線 the look は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差し the gaze によって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』2004)
ヒッチコック、裏窓 |
◆フロイト『欲動とその運命』より
……覗くことと、露出することをそれぞれ目標とする欲動を研究してみると、
(サディズムーマゾヒズムとは)少し違った、さらに単純な結果が出てくる(性的倒錯の用語では窃視症者 Voyeur と露出症者 Exhibitionist)。そしてここでも前の場合と同じような段階に分けることができるのである。すなわち、
(a)覗きが能動性として、外部の対象にたいして向けられる。
(b)対象を廃棄し、覗見欲動 Schautriebes が自分自身の身体の一部へと向け換えられ、それとともに受動性へと転じて、覗かれるという新しい目標が設定される。
(c)新しい主体 Subjektes が出現し、それに覗かれようとして自己を露出する。
能動的な目標が受動的な目標よりも早く登場し、覗くことが覗かれることに先行するのも、ほとんど疑いのない事実である。しかし、サディズムの場合との重要な差異は次のような点である。覗見欲動においては、(a)の段階よりも、もう一つ前の段階が認められる。
覗見欲動 Schautrieb は、すなわち、その活動の端緒において自体性愛的 autoerotisch であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出す。覗見欲動が(自己と他者とを比較するという過程をたどった上で)、その対象を他者の身体の類似の対象と交換するにいたるのは、そののちのことなのである(段階a)。
ところで、この原段階は次のような理由から興味深いものになる。つまりこの原段階から、交換がどちらの立場で行なわれるかに応じて、その結果として成立する覗見症と露出症という対立的組合せの両極面が現われてくる。すなわち、覗見欲動の図式は次のように書き表わすことができよう。
α) 自己が性器を覗く = 性器が自己によって覗かれる
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β) 自己が他の対象を覗く γ) 自己という対象或いはその部分が
他者に覗かれる
(能動的覗見症 aktive Schaulust) (誇示欲 Zeigelust, 、露出症 Exhibition)
…眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目 yeux すら、姿 apparence すら見ていない ne vois pas 誰かによって自分が眼差されていると感じる me sentir regardé こともある。なにものかがそこにいるかもしれないことを私に示す何かがあればそれで十分である。
例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると 私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差し regard である。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、セミネールⅠ、02 Juin 1954)
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見つめられている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である je suis tableau。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真である、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)