偉大なる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)
男たちは性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、あこがれつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(Camille Paglia (2018). “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”)
…………
女というものを夢見るのは、男だけではない。女たちも、女というものを夢見る。実際、女たちは男のことなど夢見ていない。夢見ているのは、男に愛される「この私のなかの女」である。つまり女たちが考えているのは、常に「女というもの La Femme」である。
ーーなんてふと口が滑って書いちゃって。
ボクの愛する「フェミニスト」カミール・パーリアの言う通りだよ。
ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! if you read Lacan…Your brain turns to pudding! (カミール・パーリア、Crisis In The American Universitiesby Camille Paglia、1992)
ーーボクはすこしはラカンやラカン派を読んだので、脳軟化症気味なんだよ。
ラカン、デリダ、フーコーは、弱々しく不安げなアカデミックパーソナリティの完璧な代言者である。彼らは、言葉の形式に囚われ周囲の事情に絶え間なく打ち負かされている。この三人組は、憤懣、疎外、おろおろした受動性と怠惰という標準的プロフェッショナル状態に対して自己免罪的広汎な釈明を提供している。(Camille Paglia "Junk Bonds and Corporate Raiders: Academe in the Hour of the Wolf"、1991)
ところでカミール・パーリアはフロイトファンではあるんだな。
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
ーー《フロイトはニーチェの後継者なのよ》(パーリア、 性のペルソナ)
ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。
Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925年)
ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心裡のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生であり、生の永遠回帰である。過去において約束され清められた未来である。死と転変を越えた生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永世としての真の生である。このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』)
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたのだ。……
西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
人生はエロしかないわ!
女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”, 2018)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)
宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……
社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……
自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
ーーで、許して頂けるでしょうか?